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ドライブ・マイ・カーのaiaiのレビュー・感想・評価

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
3.4
村上春樹原作というよりは、村上作品に流れる「不在」と「喪失」を描いた物語。
~原作が日本小説vol 1~

村上春樹の作品全体(およそ)に通底するキーワードは、「不在」と「喪失」

突然の不在に直面した主人公の喪失感(それが近親者の死であれ、なにかのものであれ)がよく描かれる。

村上春樹後期の短編は静かでマイルド。

相変わらずのなにかの「不在」が、多かれ少なかれ底をゆっくり流れている。

これは決して埋めることのできない「不在」で、若い頃の主人公はその「不在」に動揺していたのだが、作者が年齢を重ねるにつれてか、だんだんと許容するようになった印象もある。

-- 原作「ドライブ・マイ・カー」のあらすじ --

家福(かふく)という主人公は俳優で、死んだ妻も俳優。
生前、妻は不倫していて(共演者の男たちと)、家福はそのうちの一人と友達になる。
運転手として雇った女性ドライバー「みさき」にも経緯を打ち明ける。
みさきは北海道出身で、父が蒸発し、母からモラハラを受けていた。
寡黙で静か、だが運転技術は卓越していた。

話のメインは家福が死んだ妻の不倫相手(高槻)と友達になって、なんどか酒を酌み交わすようになるくだり。
その男は家福が不倫に気がついていることを知らない。

家福はいう。
「妻の中にある大事な何かを見落としていたのかもしれない」と。
それを「盲点」という言葉で表現する。
この「盲点」はずっと埋められることがない。

原作は短編集「女のいない男たち」に収録されているが、「女がいない」というのは、「女を理解できないでいた」というメタファーだろう。

-- 映画で描かれる「喪失」--

原作では描かれていない劇中劇の「ゴドーを待ちながら」は、古今東西、演劇関係者なら誰しもが通る試金石のような超有名作品。

登場人物やセットが少なく、学生やアマチュア演劇でもよく上演されるし、アレンジも多い。

「ゴドーを待ちながら」では男二人が、待てど暮せど、一向にやってこない”ゴドー”をひたすら待ち続けながら会話するお話なのだが、”ゴドー”は彼らの「喪失」のメタファーとも言える(いろんな解釈あり)

家福が車のなかでドライブ中ずっと流す演劇練習用のテープは妻の声であるが、「抑揚(よくよう)」が無い。

いわゆる「棒読み」

家福が芝居の練習でキャスト全員で本読みする際にも、「抑揚」をつけず「棒読み」するようにと指示する。

これは意図的なもので、例えると、いきなりドレッシングをかけて野菜を食べるのではなく、まずはその野菜の素材の味を確かめるため、生のまま噛みしめてみるというような行為に近い。

女性ドライブバーみさきの話す言葉にも「抑揚」が無い(寡黙という設定もあるが)

「抑揚の喪失」

芝居のキャストの一人に手話をつかう女優がいて、彼女のセリフになると手話なので、静けさのなかでシークエンスが進む。

これは「音の喪失」

こういう風に、映画では徹頭徹尾「喪失」が描かれる。

家福の”静”と高槻の"動"が対照的で、二人の共通点は「喪失」なんだけど、もう少しそこを掘り下げて欲しかった。

ラストシーンはよくわからなかったかな。
救いを求めたのか、なんか取ってつけたようでもあるし・・・

-- 原作者の感想が聞きたい --

先日、朝日新聞で「池井戸潤が撮る日本の工場」という記事を読んだ。

彼の作品「シャイロックの子供たち」が今回映画化されるとのことで、氏が実際の撮影現場に足を運んだ際の写真と文が綴られていた。

記事のなかで印象的だったのは、彼の原作者としての姿勢。

映像としてベストを目指すため、改変については一定の水準に達すれば受け入れる(逆に達しなければ一切妥協しない)

いったん脚本を了承し、映像許可を出せば、

- 配役に口を出さず、
- 完成した映像に悪口をいわず、
- 宣伝に協力する

だそうだ。

さて、村上春樹はどうなんだろう。

てっきり、デビュー作「風の歌を聴け」の映画化で懲りたと思っていたけど(笑)
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