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『Crystal Swan(英題)』に投稿された感想・評価

[ベラルーシ、それでも叶えたいアメリカンドリーム] 90点

去年泣く泣くベスト20から外した傑作ベラルーシ映画。1996年、ベラルーシは首都ミンスクでDJとして働くヴェーリャには夢があった。それはハウスミュージックの聖地であるシカゴに行くこと、そして二度とベラルーシの土を踏まないことだ。そして、同じようなことを考える人々の行列でアメリカ大使館前は埋め尽くされていた。ベラルーシ映画史上初めてアカデミー外国語映画賞にエントリーした本作品は、ソビエト時代の文化や思想が渦巻く崩壊直後のベラルーシが舞台でありながら、過去の惨事を忘れたかのように国の闇の時代を"栄光の時代"として扱おうとする現在の風潮を汲み取っている。監督Darya Zhukは1980年4月26日にベラルーシはミンスクで生まれ、16歳になって以降アメリカとベラルーシを往復して生活している。ハーバード大で経済を学んでいる際に映画の虜となって、2015年にコロンビア大MFAの監督コースを修了した。本作品は在学中から数本の短編を撮っていた彼女の初監督作品である。

DJの仕事中は青い髪のカツラを被っている彼女は、"ピエロか?"と蔑まれる存在であり、支配的で疲れ果てた母親から逃れようと必死になって奔走する。しかし、アメリカを"自分が自分らしくいられる国"として桃源郷のような幻想を重ね、これ見よがしに必要もない英語の会話を突っ込もうとするヴェーリャに対して、彼氏のアリクを含め彼女に関わる全ての人間が彼女のアメリカ行きに消極的で、諦め基現実的な考えを持っていることがわかる。

彼らが諦め、"ベラルーシはカルマよ"とまで言ってしまうには理由がある。本作品の中でも言及されているし、私も『ロシアン・ブラザー』の記事で書いたが、ソ連崩壊後に自由経済が導入されたことで失業率も犯罪率も格段に上昇し、年金すら支払われないというソ連よりも悪い時代が到来したのだ。人々は"ソ連時代のほうが良かった"と口々に言い合い、街では自由を求めるデモが起こる。ヴェーリャがDJとして働いている会場は倉庫であり、国が公園などから回収したレーニンやその他英雄たちの銅像が所狭しと並べられている。人々はソ連の逃れられない亡霊を常に背後に感じながら、ソ連時代と同じことをしているのだ。不自由な時代があまりにも長く続いたせいで、得られた"自由"を素晴らしいものとして享受しただけの人間など寧ろ少数で、それでも得られなかった"自由"への幻想を抱き続ける人や"こんなものか"として元の生活に戻っていった人の方が大半のように思える。そのテーマ自体は現代にも通じており、歴史は繰り返すという格言すら驚くほどの速さでナチズムに似たポピュリズムが急速に台頭してきた現代において、その国の闇の時代を"栄光の時代"として懐古的に振り返ろうとする風潮が実際に生まれ始めている。

アメリカ行きを少しでも早めたいヴェーリャは、適当な就労証明書を買って提出するが、それが仇となってしまう。そこに書かれた電話番号に連絡して確認を取ると言われてしまったのだ。ヴェーリャはどうにか金を工面して件のカラス工芸工場がある街"クリスタル"を目指す。比較的近代化されているであろうミンスクですら浮いていたヴェーリャが、そのインテリ意識をそのままにほぼソ連と言っても差し支えないほど時間の止まった田舎街に降り立ったのだ。辛子色のセーターに真っ赤なコート、真っ青なマフラーに乱れたダークブロンド、首にはヘッドホンを下げて早足で歩く彼女は色彩豊かで、自然風景からすらも浮いている。

ミンスクとクリスタルの対比は、ベラルーシとアメリカの対比ともなる。件の電話番号を持つ家では料金滞納で電話が切れている状態や、ルールは作るもんじゃなくて従うものだとしながらも湖に爆薬を投げ込んで魚を乱獲するといった住民たちの姿は、ヴェーリャ的にはディストピアそのものだ。しかし、クリスタルの常識に対して新参者であるヴェーリャはそれに慣れながら自分を保って暮らさないといけない。つまり、新たなコミュニティで自分らしさを守れるかというシミュレーションになっているのだ。

4:3の狭い画面は、そんな窒息寸前のヴェーリャの閉塞感を共有させる。或いは、アメリカ以外の物が見えなくなったヴェーリャの狭い視野をも共有する。そして、手狭になった画面を押し広げるのはやはり鏡やガラスの反射だし、目線の高さのアップショットと同じくらいロングショットや俯瞰・仰視ショットを含んでいる。本来の空間とヴェーリャの距離感なども強調している。

電話番号の持ち主は、勿論部外者で横柄なヴェーリャには非協力的で、しかも長兄ステパンの結婚式を二日後に控えていて彼女に構っている暇などなかった。そんな中、誰もが誰もを知っている地域社会に同じく息苦しさを感じていたステパンとコーシャの兄弟と接近していく。特に同年代のステパンは軍隊帰りで特にこれといった将来のプランがない青年として対照的に描かれている。ヴェーリャはこの家族と共に二日間過ごすことで、自身の中にある問題を見つめ直すことになる。

しかし、物語の衝撃的なクライマックスとして、電話を所有する意味で立場の強いステパンがそれを人質にヴェーリャをレイプする場面から、翌日の結婚式に持ち込む胸糞展開は正直ただの胸糞悪さしか残していないので、あまりに繊細さに欠けているし、アイデンティティの放浪や現代に通じる"闇の過去を礼賛する風潮"の危険性などの本質的な問題からも外れているとしか思えない。流石にされた犯罪を味付けの一要素として使うのは容認しかねる。

とは思いつつ、やはり故国ベラルーシに対するアンビバレントな感情に突き動かされているであろう監督のエネルギー(主に悲しみと怒り)は感じる。この監督は大きく化けると思う。
鑑賞記録。

ベラルーシ、若者の自由希求と閉塞感。
chi

chiの感想・評価

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初ベラルーシが舞台の映画。主人公と同じような年齢だから理想と現実のフラストレーションみたいなの共感する。
あとは時代設定がちょっと前なのもあって美術と衣装が可愛かった。原色映えるなあ。