都部

スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバースの都部のレビュー・感想・評価

3.4
メタフィクション大好きなフリークとしてはすっかり慣れ親しんだメタ要素を孕んだ構造批判劇がスパイダーマンの枠組みで見れるという事で、ウキウキで鑑賞に望んだわけだが結果から述べると期待値を若干下回る完成度だったことは否定できない。

上映時間140分──これはアメリカに存在するスタジオが制作したアニメーション映画としては映画史上最長の尺となる──という長尺に対して大味な筆致が散見される様はこうした繊細な題材を考えると不適切であり、決定論との対立というヒロイズムを自ずと唆られる物語ながら、その散漫な語り口が全体の総集編感を色濃く醸し出している。

本作が二部構成の一部目である事を加味しても、140分も物を語っておいてコレかよという落胆は故に隠そうにも隠せないのだ。

大きな不満点として挙げられるのは本作のもう一人の主人公と言えるグウェン・ステイシーの物語の帰結がひどく滑稽であるという点だ。マイルスが直面する物語の結末は次作へ先送りにされるため、事実上 今回は彼女の物語の結末がこの物語の結末と言えるのだが、その結末の着陸失敗が訥々と語られる物語全体の分かりやすい陳腐化を招いている。

立ち上がりは良好だ。晴れない孤独を抱えながらスパイダーグウェンとしての活動を続ける彼女は決定的な事件と直面し、年齢相応の未熟な存在としてその傷と直面する事となる。そしてその傷をどう受け入れるべきか──物語の争点はこうした傷を受け入れる"しか"選択肢のない人生を黙って見過ごすかにあるため彼女の物語も必然的に本作のテーマに密接である──を多次元世界のスパイダーマン達の使命を目にして学んでいく。
しかしそれに否を唱えるマイルスの存在により、彼女は受容以外の人生の糸口をようやく見つけるのである。ここまでは良い。問題はその解決が物語の構造の都合に付き合わされる形で義務的に短絡的に成されることで、その解決方法があまりにも馬鹿馬鹿しいからだ。

仮にこの解決方法の理屈が可ならば、今回 明示される運命論に辛気臭い顔で馬鹿正直に付き合う数多のスパイダーマン達はとんでもないアホであり、前作の少数精鋭な面々から烏合の衆に成り下がったと感じさせるような展開だ。

加えて運命に反逆するマイルスの物語とそれに影響を受けるグウェンの物語の脚本上の噛み合わせはよくよく考えてみれば良いとは言えず、序盤〜中盤の重力を取り扱う象徴的なシークエンスから先の展開はお祭り映画としての物語のよくある順序立てに振り回され、その精緻な感情の導線を明らかに見失っている。サブプロットと言うには物語のほぼ半数を占めるドラマの昇華の仕方がその体たらくなのは見過ごせないだろう。

一方でマイルスの定められた規範/構造に逆らわんとする物語の在り方次第は現代的であるし同時にヒロイックな物語として興味深い。

ポップアイコンとして世界中でその名前と物語が知られるスパイダーマンの御約束に改めて『それって変だろ』と異を唱える姿は異端であるからこそ主人公に足り得ているし、ヴィランというより変化していくマイルスの位置関係を示す舞台装置として存在するスポットとの対峙や両親に誇らしき子供として在るべき姿を望まれることへの葛藤など、目立った取り零しは少ない。しかし前者に関して言えば、構造批判の担い手をマイルスに集中させる為に他のスパイダーマン達の物分り良い民衆として意図的に言動を制限していると感じる部分はあり、構造批判の話をしているのにも関わらず類型的な構造に収まっている本作の話の流れは良しとし難い。だからこそアナーキストとして一貫した行動を取るスパイダーパンクが舞台上で映える訳だが、コイツのような異端児以外の蜘蛛は『はいそうですね』と運命を受け入れた考えない葦だとしている都合の良さには笑ってしまう。言ってしまえばその民衆化は、前作でスマートに描写されたマイルスと肩を並べる面々もまた彼と同じ喪失を体験して同じおもさのドラマを抱えた個であることの否定であるし、増殖したスパイダーマン達は所詮賑やかし以上の意味を果たしていない。ガッカリだ。

本作ではマルチバース維持の為のカノンなる絶対規定が語られるが、海外圏のサブカルチャー文化において絶対遵守の正史として同様の言葉が度々使われることを踏まえると、スパイダーマンという原作において満たすべき最低条件の設定の話をしていると分かるが、それに反抗せんとするマイルスというキャラの立ち位置とミゲルの言葉の数々は趣深い。

何故なら黒人のスパイダーマンの誕生に対して、当初はファンダムから似たような批判の声が次々と浴びせられたからである。

『スパイダーマンは黒人なんかではない』『黒人のヒーローがやりたいなら1から新しい物語で語るべきだ』『原作を守れ』と。それはつまりスパイダーマンとしての存在の否定である。そうした潮流は先週公開された『リトルマーメイド』に対する反応を鑑みれば、連綿と根深く続く特定の人種に対するヘイトであるが、しかし何事にも初めてがある。

『本来はスパイダーマンになるべきではなかった存在』

そんな真相を知った後もなおヒーローとして自分の物語を語ることに揺るぎない意志を見せるマイルスの構図はだからこそ熱いのだが、これはそうした構図が素晴らしいのであって、その意志の表明に値する物語を今回のそこまでの流れの中で語れていないのではっきりと消化不良だ。女のケツを追っ掛けていたら突如として問題の渦中に立たされて一方的に真相を知らされて、と巻き込まれの立場のまま物語が始まり終わるのでそこもどうかなと思う。これだけの尺に恵まれているのに、スパイダー・ソサエティからの説明的な遣り取りの連続はやはり不自然で、開示される情報をドラマとして有効に扱えているとは言い難い。

そのような形で脚本面に大きく不満のある本作だが、映像表現の引き出しが増える一方のグリッヂ混じりの画面の構成は情報量が目まぐるしく やはり楽しい。グウェンの存在するアースの絵画的な筆致の世界観から期待は大きかったが、やはり多次元のスパイダーマン集結からの人間の三半規管の許容ギリギリを狙いすますような画面内 情報の洪水ぶりは心地の良い疲労感を鑑賞後に与えることだろう。感心が勝って、前作に点在していた高揚感を覚えるインパクトに欠けるのがやや残念だが。

総合すると映像表現の豊かな先鋭化は満場一致で認めるところだが、それ以外を楽しむとなると脚本上の瑕疵は目に付いて無視出来ず、しかし致命的な欠点と言えるほど無惨ではないので『なんか普通だったな…………』に心持ちは自ずと収束する。とはいえ完結編となる次作は来年春に公開らしいので純粋にそれは楽しみだ。
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