しの

ジョン・ウィック:コンセクエンスのしののレビュー・感想・評価

4.0
ここまで過剰じゃないと映画である意味がないんだという強迫観念の塊みたいな作品だった。『M:I/デッドレコニング』とはまた別路線で前人未到の領域に達している。ただ同時に、果たしてこのインフレの先に何があるんだと疑問に思わなくもない。

完結編(?)らしい一つの軸として「ジョンという生粋の殺し屋に安らぎは訪れるか」があり、これ自体は凡庸なドラマなのだが、それをここまで過剰なアクションの物量で表現するとは。全てのアクションシーンが「ここで終わるだろう」と思った尺の2倍は続く。はいカット! と声を掛けたくなる瞬間が明確にあってもまだまだ続く。そしてそれに伴いキャラクターが明らかに疲弊していく。これが「どうあがいても抜け出せない殺し屋ワールド」の体験になっているのだ。リアルであり、しかし遊んでるだけにも見え、遂にはもうやめてくれと思えてくる……。

そして改めて思うのは、このシリーズには「形式」しかないということだ。裏社会のルールや儀式のディテールは凄いが、たとえばなぜ彼らがあそこまで主席連合に怯えるのか、この人たちの間に何があったか、みたいな背景はほぼ描かれない。しかし、本作を観てこれはこれで正解なのだと思えた。

つまり、彼らは本来我々が認知しえない世界の住人なのだから、我々はそこに深入りはできないし、「結果」としてのアクションを見守るしかないということだ。今回、巨大なシステムと権力に手綱を握られそこから抜け出せない人々の群像劇としてまとめてきたので、その寓話的構造がハッキリした。果たして彼らに安らぎは訪れるのか? 永遠に観客に奉仕するしかないのか? という。

こう考えると、インフレしていくアクション映画のアクションに対して、『デッドレコニング』がその現代的総括によって「人」の力を示すことでケリをつけようとしているのに対し、本作は際限なくインフレさせたら人は疲弊していくことを示してケリをつける、という正負の対照性が見出せるので面白い。

そしてその回答があの結末なのだとしたら、なんだか身も蓋もない話だなと思う。主席連合(=観客の再現ない欲望)に囚われてきたキャラクターの反逆。こうなると、もはや「家族の復讐」という題材は端に追いやられている気がする。あの付け足しの様なポストクレジットはその象徴だろう。この歪な帰結は、本シリーズの変遷そのものを表していると思う。はじめは復讐という明確なドラマを際立てるための形式的世界観だったのに、どんどんスケールが大きくなって形式だけがインフレしてしまい、それ自体をどう終わらせるかという話にならざるを得なくなった。

だから言ってしまえば本作には「もう勝手にしてくれ」感もあって、それはべらぼうに長いアクションシークエンスにも言えるし、都合のいい調停ルールの結果よく分からん決着でオールオッケーになる……みたいな話の流れもそう。際限なきインフレとはこういうことだ。

その結果、たとえばあの渾身の階段落ちも半ばギャグの様に見えたりとか、「形式がマジで形式でしかなくなってない?」という疑念もある。面白さとしんどさの境界にいる感覚。これ以上いくとそれこそ形式的な我慢比べでしかないとは思う。ただ、自分はそもそも1作目がむしろアクションもドラマも中途半端な感じがしてハマれなかったので、どんどん殺し屋ワールドという「ガワ」とアクションのインフレに焦点を当てていく流れは良かったし、そんなインフレの「報い」の話として、シリーズのなかでも一番楽しめた。

※感想ラジオ
【ネタバレ感想】アクション映画の限界点がここに!『ジョン・ウィック:コンセクエンス』が示す観客の欲望の終着点
https://youtu.be/ufBiGrBGw10?si=RAm9u3Dj2gm3-K-q
しの

しの