まっつん

セイント・モード/狂信のまっつんのレビュー・感想・評価

セイント・モード/狂信(2019年製作の映画)
4.3
A24配給の日本未公開作品。つい先日、配信でリリースされたので鑑賞。こういうのを劇場でやってくれないかなぁ…と思いつつ未公開になるのもよく分かる作品。

タイトルからお察しの通り、狂信的なキリスト教信者の女性の話です。やはりこういった西洋の宗教観と密接に結びついている作品って、日本人の我々には理解出来ない/読み解けないって思うことが多くて(もちろん全ての日本人がとは言いませんが)、僕も何となく避けちゃうことがあるんですよ。しかし、それでも面白い映画は面白いわけで。逆に完全に宗教的な寓意を読み解けないと面白味が伝わらない映画って面白くない映画ってことじゃないの?なんてふうにも思う。そういう意味で、僕はこの映画かなり楽しめました。

ざっくり言うと「罪悪感に囚われすぎると人間辛い」って話だと思いました。主役の女性は自身の医療ミスで患者を殺してしまった罪悪感からキリスト教に傾倒していくわけですけども、キリスト教にある「原罪の意識」に絡め取られて、より罪悪感を深めるサイクルに陥ってしまっている。もちろん罪悪感に苦しめられて然るべき状況にいるとは思うのですが、折り合いの付け方を宗教に求めてしまったというのが大失敗ですよね。人間今生きてることが全てなんだから、現世の即物的な楽しみだとかで折り合いを付けていく方がいいと思うんだけども、彼女はそういう方向に行かずに何処にあるかも分からない「救い」を求めちゃうんですね。今の苦しみは何かしらの試練で、後々転化されて私は救われるのだ。なんて戯言を信じちゃうもんだから、マゾヒスティックなまでに自虐的になり、側から見ると間抜けで訳わかんないことばっかりしてしまう。加えて彼女は非常に孤独な人物でもあって。それ故に自分の在り方を他者に押し付けては眉を顰められ、また傷つくというどうしたって幸せになれない方向へと突っ走って行ってしまうのです。

しかし、そんな彼女にも変わる機会がなかったんけではなくて。中盤、とあることから失意のどん底に落ちた彼女は、現世の即物的な楽しみの代表格でもある酒とセックスに手を染めようとする。それまで汚れとして忌避して来たが、「そんなことしてたって苦しいだけじゃないか…」と居酒屋(あえて居酒屋と言います!)へとひとりで足を運ぶ。しかし、ここが大失敗で。何がって店選びですよ!僕はひとり酒が大好きでして、頻繁にひとりで飲みに出ては日が昇るまで梯子をしまくる「ひとり飲みのプロフェッショナル」としてはですね、ひとり飲み初心者がやってはいけないことをこの彼女は全部やってしまっている!まずこんなだだっ広くて、誰でも入りやすい居酒屋にひとりで行ってはいけません!多少の勇気が必要ですが、こじんまりとした狭めの店、もしくは店員さんと話せるバーなどを選択すべきです!どういうことかと言うと「自分と同じようなぼっちの人間が足を運びそうなところをセレクトしなさいよ」ということですよ。「まずは入りやすい店で」というのは全く持って逆効果!こういう店は一人客を想定していないので逆に疎外感を強めてしまうことになりかねないんですよ。そこでみんな心が折れてしまうんだなぁ。本作の彼女も例外では無く、みんなが楽しく友達と酒を飲み交わしてる中で、ひとりポツンと飲んでるわけですよ。そりゃ寂しいですよ。そこから追い討ちをかける様に、それほど親しくない友人を誘ってみたものの断られるどころか向こうを怒らせてしまう。そして、ろくでもない出会い方をした男の家でセックスをするも全然楽しくない(そもそもいきなりセックスとかしちゃうのも良くない、あなたがすべきはまず友達を作ることだ)。神の存在を感じる時にはオーガズムに達するのに人とのセックスでは達することが出来ない。より深く孤独感に苛まれ、帰宅する頃には身も心もボロボロ。言わんこっちゃない!そこでまた神からの啓示なんか受けてしまいましてね。そこからはもう目も当てられないことになっていく...普段、映画に出てくる狂信的な人物に同情したりすることってまず無いんですけど、彼女は流石に可哀想だなと思ってしまったですよ。なんでおれに電話してくれないの!すぐ行ったのに!

そして、この映画が恐ろしいのはこっからでしてね。クライマックスでは、彼女の中にある信仰心が達成されるわけです。数々の苦行を乗り越えて救いを得た。しかし、それはあくまで彼女の主観で、客観的に起きたことは何か?彼女はどういった姿になってしまったのか?ということをもの凄く唐突に突き放して見せてくる。この底意地の悪さがですね、恐ろしい...「イイぞ!もっとやれ!」とも思いましたが。