ジャン黒糖

バビロンのジャン黒糖のレビュー・感想・評価

バビロン(2021年製作の映画)
3.5
デイミアン・チャゼルが1920年代のハリウッドを舞台に描く大作!
賛否両論ある、と云われている所以もまぁ納得の部分もありつつ、個人的にはこれの次に撮る監督作がどんな映画になるのか、寧ろ凄く楽しみになりました!

【物語】
舞台は1920年代ハリウッド、サイレント映画隆盛の時代。
サイレント映画の大スター、ジャック・コンラッド、怖いもの知らずの女優志望ネリー、ハリウッドで働くことに憧れるメキシコ人マヌエル、アジア系アメリカ人でサイレント映画の字幕制作者兼歌手のレディ・フェイ・ジュー、黒人トランペッターのシドニー・パーマー。
それぞれに思いを腹に抱えた彼らは、狂乱の時代に酔いながら、興じながら、そして不満を持ちながら生きてきた。
ところが、トーキーが発明された1927年以降、彼らの人生は徐々に元通りには戻れない状況へと変貌していく…。

【感想】
本作、賛否分かれる作品というのもめちゃくちゃわかる。
なので、今回は①良かったところ、②微妙なところ、③自分なりに考えを進めた結果思ったチャゼル監督の今後、について書いておこうかなと!


①良かったところ

まず、これは予告でも度肝抜かれたけど、見せ方が豪華、というより豪快過ぎて良かった。
映画で「セット」と聞けば、自分はいわゆるハリウッドにある各映画会社の撮影スタジオをパッと思い浮かべるけれど、登場するのは広大な土地に広がる巨大な撮影所。
1920年代はいまほどハリウッドという街自体が整備されておらず、だだっ広い敷地での撮影に、ネリー同様、観ている自分も「これが映画のセットか!」と呆気に取られた。
なるほど音が入らなくてもよいサイレント時代における「セット」といえばこれなのか、と。

しかも、その広い撮影所で様々な映画が同時並行的に撮影されているサマをワンカット長回しで見せるという、この豪快さに、ハリウッド黎明期の雄大さを感じる。
(本当にこんな並行で撮影してたの?と気になったりはしたけど、この管理が行き届いていない野放図状態が当時のハリウッドなんよ、というのが言いたいのかな、と自分は受け取った)

何より、制作費かかってんなーと思わせるに十分な豪華さがあればあるほど、この映画にとってはプラスに働くと感じた。

その点、なんといっても目を引くのがオープニングのパーティシーン。
ホームパーティ映画の傑作『プロジェクトX』の100倍大掛かり&下品で、『アイズ・ワイド・ショット』の100万倍陽気で、『ハングオーバー!』で劇中は描かれなかったバチェラーパーティ場面を映画化したかのような乱痴気パーティによるこのオープニング。
開いた口が塞がらないというか、まぁとにかく下品。笑

ここで彩りを添える、チャゼル監督作毎度お馴染みのジャスティン・ハーウィッツの劇伴が良かった!
彼の映画を観終わると毎回サントラ聞き込んじゃう!


そんな、とにかく豪快、且つ豪華なサイレントからトーキーに移り変わり始めた際の作り手すら戸惑う場面は、エピソードとしては自分も知っていたことではあったけれど、一本の映画のなかで示されるギャップとして面白かった。

マイクの位置と演者の立ち位置、撮影中は静寂にする必要があるスタジオでのフィルムを回すための密閉された防音室、赤ランプ。
そしていままでセリフ回しは問われなかった役者たちに要求されるようになった演技力。

いままでサイレントに慣れていた座組みでの撮影が難航するサマは滑稽で、この"はじめてのスタジオ撮影"でのP・J・バーン演じる助監督がもう笑うしかなかった笑
「カメラ〜、サウンド〜!」


こうした技術革新の流れのなかで時代になんとか生き残ろうとする人たちを描くということ自体、技術革新のサイクルがより短く、より早くなった現代において、このテーマはいまに合っているなと思った。
iPhoneが出たのがほんの十数年前、いまやあらゆる単純且つ大量生産は自動化され、無人レジによって店舗の省人化が進み、生成AIによって複雑な知的生産さえ人から置き換え可能になりつつある。
なんなら、学生たちの就職したい企業ランキングもここ10年で変化が激しい。
そんな現代において、本作に出てくるサイレント期の映画人たちの焦りは何気に他人事ではないと思いながら観ていた。


本作、特に後半、時代がトーキーへと変遷していくなかで世間からの評価に陰りが見え始めたジャックの人生にどこか冷めてしまいながらも、それでもスターであろうと体裁を保とうとする姿、表情は切なかった。
本作で彼を演じたブラッド・ピットの演技、凄く良かったなぁ。。
(後述する悪かったところとして)ただでさえキャラの掘り下げが弱い本作において、表情や仕草、佇まいだけで物語に背景を感じさせる彼の演技は、様々な役柄を演じてきたブラッド・ピット自身のフィルモグラフィとかも重ねて観てしまい、本当に良かった。


本作は露悪的、下品な描写が多いけれど、流石は優等生なデイミアン・チャゼル監督なだけあって、というべきか、キャスティングにこの映画の見た目非倫理的な描写に対して一定の正当さを担保出来ていると思った。
プランBのブラット・ピット、ラッキーチャップエンタテインメントのマーゴット・ロビー、そして大傑作『ブックスマート』で監督デビューしたオリヴィア・ワイルドら、ここ10〜20年の映画界で社会的にも意義ある評価をされてきた作品において製作側としての手腕を発揮してきた俳優たちが本作に出ている、ということ自体が、この露悪で下品な映画にとって救いになっている気がした。







という、悪く言えば表面的な部分ばかりがこの映画の良かったな、と思ったところ。



②微妙だったところ

個人的に3時間超という上映時間には抵抗があったものの、観始めたら長さ自体はそこまで気にはならなかった。
まぁ実際の上映時間通りというか、別に体感的に短くも長くも感じず。笑

どちらかといえば、この長さをもってしても各キャラの掘り下げが弱いところとか、作品の醜悪で下品なテイストとアンサンブル映画としてのスターの魅力と映画史を語る映画としての作品に込められたメッセージ性が一本の映画として噛み合っていないところとか、そっちの方がわりと残念ではあった。

先程良かったところとして挙げた、昔のハリウッドの豪快さも、露悪的なものは露悪的なものとして、それ以上でもそれ以下でもなく、マイナスな意味で背景化してしまっており、登場人物たち自身の当事者性とまるで合致していないように感じた。
そのため、ド派手なオープニングのパーティも派手ではあるものの、それがマニーにとって、ネリーにとっては別にただの背景でしかなく、そこから特段メッセージを感じない。
現にマリーに象のクソは喰らわないし、ネリーもそこまで酷い目に遭うわけでもない。

他にも、撮影中の事故死が単なる露悪ギャグに消化されてしまう軽い扱いのエキストラや、上流階級のパーティで妻のお尻を触り続ける男の手、ライティングを理由に黒人に黒塗りをさせる撮影指示、象のうんこ、女性のゲロ、地下に広がるギャングの異常なパーティ、同性愛描写…などなど3時間のあいだに多くの胸糞悪い醜悪な描写が描かれるけれど、それらは本当その後のマリーやネリー、ジャックたちの行動にあまり作用しない。
しかもその露悪ギャグ自体も、別に笑えもしない!!

また、キャラの掘り下げもあまりなく、ネリーは単なる破天荒な女優として描かれ、彼女にはもう少しバックグラウンドが欲しかった。
強いて挙げれば彼女の出自に、現在の破天荒な姿とのギャップが垣間見れるけれど、それも結局その後の場面に特段描かれない。

黒人トランペッターのシドニー・パーマーや、字幕制作者のレディ・フェイ・ジューも、あくまでアンサンブル映画の脇としてこのトーキーへの移り変わりのなかで物語に色を添える程度で勿体無い。
本作に登場する彼らの多くは、時代の寵児として行けるところまで上り詰めたかどうかもよくわからないところで退場していくからうーん、勿体ない。。

また、とある人物も、トーキーに移り変わるなかでこれまで脚光を浴びてきたキャリアに陰りが見え、苦悩する場面が描かれるけれど、ここでゴシップ誌の編集者エリノアに本作でも印象的なある言葉をかけられる。
その言葉を素直に受け止めていれば、タランティーノ監督作『ワンス・アポン〜』におけるディカプリオ演じる落ちぶれたアクション俳優リック・ダルトンみたいに、凡作駄作だろうと作品に出続けることで何か観る人の心に残る作品を生み出せるかもしれない。
そんな幸福を手放してなぜ…。
これ、麦わらのルフィが見てたら間違いなく「◯◯することは恩返しじゃねェぞ!」って怒ってたよ。笑
(ただ、『ララランド』のオープニング、"Another Day of Sun"でどんなに芽が出なくても朝は来るしその度に舞台に立つだけで力が湧いてくるということを高らかに歌ったチャゼル監督なのだから『バビロン』における彼の顛末自体はきっとあくまでもこの作品のトーンを考えた上での計算だったんだろうな、とは思う)


という訳で、劇中頻発される露悪な描写は特段物語の本筋に寄与することも回収させることもなく消化された結果、なんとなくな「ほらこの自由で狂乱な時代の空気感最高でしょ?」程度の印象に留まってしまう。
さらには役者陣が魅力的に演じてくれた各キャラに掘り下げがあまりなく、挙げ句の果てにはハリウッド流『ニューシネマパラダイス』的なラストにイヤイヤどんな気持ちでこれを観ろと笑

『ララランド』が個人的に好きな理由は、夢と恋の甘い部分から苦味まで見せたあとで、ラストに「あったかもしれない可能性」を見せる、という映画ならではのことをロマンチックに見せたことが大きい。
ただ、本作の場合、唐突に挿入されたそれは「あったかもしれない」ではなく、「な?映画最高やろ?」が凄まじいのだが、そこで描かれるのが本作で描いてきたトーキーへの移り変わりと関係のない"映像革命"の連続で、映像の勢いもあってその瞬間は感動するが、次の瞬間には「ん、3時間いろいろあったけど結局技術革新こそが映画の歴史そのもの、って言ってる?」と疑問が残った笑

しかもタチが悪いことに、技術革新こそ映画の歴史そのもの、と解釈をしてしまうと、遡ってじゃあ『セッション』もドラムのビートに対する技術の話だったよな?と過去作も含めたチャゼル監督作のノイズだった部分までもが浮き彫りになっていってしまった。
そのうえ、主要人物たち2人だけの世界となって他は背景化していってしまう、という本作ラストの描写自体、『セッション』『ララランド』『ファーストマン』にもあった描写で、悪く言えばチャゼル監督の映画演出における手数の限界が透けて見えてしまった気もした。
ただでさえ、チャゼル監督作らしい主題に、チャゼル監督作らしい演出が集大成的に練り込まれた本作は、部が悪いことに監督過去作の既視感ばかり感じてしまった。



③でも、考えてみるとチャゼル監督の今後がやはり楽しみにはなった

①良かったところ、②微妙だったところ。
正直観終わった直後は②の方が自分的には印象残ってしまい、「チャゼル監督のいままで良かったと思っていた部分も逆説的にマイナスに見えてしまいかねない」とさえ、思っていた。

ただ、観終わってしばらくしてもこの映画のことが頭からなかなか離れず、他の人のレビューとかを観たり、ジャスティン・ハーウィッツのサントラを聴き込んだりしていくなかで、いやこれはこれでなんならチャゼル監督の狙いってこうだったのかも、と思い改める部分もあったので最後に③今後について。



先にも触れたけれど、中盤ジーン・スマート演じるゴシップ誌の編集者エリノアがある人物にかけた言葉は、"役者冥利に尽きる"話であると同時に、映画というコンテンツが100年以上の歴史(ただし、音楽や絵画芸術などに比べたら全然まだまだ若い)のなかでも、マリーの言葉を借りれば「大きなもの」として存在し続けている映画そのものの深淵を覗くようでハッとさせられた。

この場面を踏まえて自分は、なるほどチャゼル監督は常にアートという1人の人生より長い歴史を持つ巨大な存在に翻弄される物語が本当に好みなんだろうな、と思った。
『セッション』だとジャズ、『ララランド』だとジャズであり映画でありロサンゼルスという地場そのものと、個々人の夢との間で翻弄される人たちが描かれてきた。
そして本作の場合、サイレントからトーキーへ"映画"そのものの在り方が移り変わるなかで、その「世界」から退場させられていく人たちの姿が描かれる。
なかでも本作は、他2作に比べて時代から落伍していく人たちを描いていることからも後半は暗く、これを観て自分はチャゼル監督作に、リドリー・スコット監督っぽさを感じた。

『ハウス・オブ・グッチ』における資本主義社会の「世界」のなかで徐々に積んでいく血族経営の限界、『悪の法則』における麻薬ビジネスの「世界」の掟によって追い詰められていく主人公たち、など、リドリー・スコット監督作には劇中内における「世界」によって退場させられていく人たちの姿が頻出して描かれる。
あの『エイリアン』だって、リプリーたちが乗った船がエイリアンの「世界」に踏み入れてしまったが最後…という話だった。

そんなリドリー・スコット監督が本作『バビロン』を撮っていたら主要登場人物全員が映画という"大きなものの一部になる"ことの残酷さをもっと詰む方向に描いていたと思う。笑
そして、だからこその映画という得体の知れない巨大さがより際立つ映画になりそう。

一方のチャゼル監督は、リドリー・スコット監督作のようなみんなが詰んでいく話、というよりは翻弄されていくサマそのものであったり、その翻弄されていくなかで登場人物たちが"巨大なもの"の深淵を垣間見るその一瞬にこそ、浪漫を感じる人なんだろうなぁと。

ただ、これはチャゼル監督作に共通して見られる批判の声として、彼が描くジャズであり映画に対する歪んだ感情についての批評を散見することがある。
たしかに『セッション』とかは、ドラムの技術こそジャズの真髄、と思っても仕方ないような描かれ方をしており、そうした批評は凄くわかる。
『セッション』なんて、最後まで主人公は他の管楽器パートの人たちと邦題通りのセッションを一度もしようとはしないですからね笑

ただ、これは自分が思うに、チャゼル監督はもしかしたらそもそも"ジャズ愛"とか、"映画愛"といった嗜好自体を描くことにはあまり興味はなくて、アートと呼ばれる創作活動を仕事にすることにまつわるどちらかといえば仕事論に興味があるのかな、と。

その点、ニール・アームストロングというあまり多くを語らない宇宙飛行士の心情をできるだけ主観的に描いた『ファーストマン』は他監督作に比べて主人公の嗜好性が見えづらい分、夢に対して翻弄されるニールの姿そのものと、月面着陸に挑むことの本質がよりタイトに見えたのかな、とか。


そのため、本作ラストにおけるモンタージュ映像は、"映画愛"が炸裂した場面というよりは、"大きなものの一部"になろうとしたマリーが、一度は映画の世界から退場しても、それでもあり続ける映画という巨大な存在の深淵=革新の連続、を観た瞬間そのものを指す場面だったのだろうな、と。
まぁとはいえ、彼が映画界にどっぷりいた1926〜32年の出来事が、眼前に広がる映画に再現されていた、という場面がどうしても「彼は"大きなものの一部"になることができた」という場面に見えてしまうので、そのあとのモンタージュ映像とメッセージ性がどうにも合致しないように感じるのだけれども。


という訳で、3時間超の上映時間のなかで、上手くいってない部分も多い映画ではあると思う。
否定派のコメントも凄くわかる。
本作はトーキーへ移り変わるなかで落伍していった者たちの切ない物語が描かれる。
そこにはきっと、若くして数々の映画賞を受賞したチャゼル監督自身の、それこそ映画という自分より巨大な存在の歴史の一部として、味わった苦い経験や、それでも朽ちない映画という幻想に対する創作意欲が込められているんだろうなぁと。
なので、決して『ニューシネマパラダイス』のような、映画愛に包まれたラストではなかったのだろうな、どちらかといえば映画という巨大な存在を前にして翻弄された自身を投影したんだような、と思った。

そういう意味で、チャゼル監督の精神状態を心配する、というよりはここまで監督の手数のアイデアを出し切ったり、あえて『ララランド』の旋律を彷彿とさせる劇伴を起用したり、自分自身の翻弄された姿をマリーに投影したりと、いままでのチャゼル監督らしいスタイルを出し切ったことで、むしろ次からの新しいチャゼル監督作を生み出すための通過儀礼的な作品が本作だったのではないかな、というのが自分なりの考察。
残念ながら興行的には大敗となってしまった本作だけれど、次作はもっと規模の小さい、アンサンブルというよりは彼がお得意とする主要人物が1:1くらいのミニマルなお話に戻って、ネクストレベルな作品が観られるのかな、と期待しております。

やっぱこの監督作、良し悪しの議論を生みやすい作品を毎度出してくるので評価も分かれやすいけど、自分はまだ好きだわ。
ジャン黒糖

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