せーじ

シン・ウルトラマンのせーじのレビュー・感想・評価

シン・ウルトラマン(2022年製作の映画)
4.1
333本目。

■ぼくと「ウルトラマン」について
自分が生まれ育った世代(1980年代中盤~1990年代前半)は、『ウルトラマン』のシリーズが『80』で途絶え、新作は1996年の『ティガ』まで待たなくてはならないという、空白の時代でした。ゆえに、リアルタイムでシリーズに触れる機会が無く、もっぱら夏休みなどで再放送されていた『ウルトラマン』『ウルトラセブン』『ウルトラマンタロウ』などで履修をした記憶があります。ただ、もうその頃にはウルトラマンは「スーパーヒーローのアイコン」として広く世の中に定着しており、ファンであるという自意識がない自分の家にも塩ビ人形があったくらいポピュラーなものだったので、普通に日常にあるものとして溶け込んでいたのだと思います。CMキャラクターとしてコミカルな使われ方をされていたというのも印象が強いですね。(カップヌードルのCMで、3分待つ必要がある関係上どんなに頑張っても食べられない…みたいな可哀想な内容だったのを覚えています)
よって、表面的な造形やイメージとしての『ウルトラマン』という作品は理解をしていたつもりですが、その裏に隠されている「元々の作り手の意図や考え、作家性」に触れたのはオトナになってからだったと思います。個人的には強い思い入れがあるという訳ではなく、少し離れた距離で客観的に見つめているコンテンツ…というイメージが強かったのです。

そんな時に、当代随一の「ウルトラマンファン(おたく)」であることで有名な庵野秀明氏が、『シン・ゴジラ』の時のように樋口真嗣監督とタッグを組んでウルトラマンの新作映画を作ると聞いたときは、とても驚いたのと同時に「やっぱりな」と思ったりもしました。『エヴァンゲリオン』の精神的なオマージュ元であるというウルトラマン初期三部作のさまざまな要素が、エヴァの旧アニメシリーズから随所に込められていたというのは有名な話ですし、そもそも『帰ってきたウルトラマン』を元に自主映画まで作るほど思い入れの強い人が、エヴァをああいう形で終わらせた後にどういう仕事をするだろうかと考えたら、必然でしたから。しかし、蓋を開けてみると賛否が真っ二つに割れ、現代の価値観からすると眉をひそめられかねない「炎上要素」があったりもするという、なかなかにクセの強そうな作品であるらしいという評価が巷では為されており、いずれキチンと観なくてはなと思い続けていました。偶然にも『シン・エヴァンゲリオン』を鑑賞してからちょうど一年。やっとこのタイミングで鑑賞をすることが出来たので、感想を書いていきたいと思います。
ということで、再生。




…なるほど。
これは確かに、賛否が分かれる出来だなと思います。
しかし同時に、そうならざるを得なかった理由というのも明確にあり、ある意味で「ファンが観たかったもの」と「作り手が作りたかったもの」との間に齟齬が出来てしまったから、こうなってしまったのではないだろうかと思いました。ここでは、そのあたりのことを書いていきたいと思います。

■「好きにする=マルチバース」という試み
はじめに断ってしまうと、本作は初代『ウルトラマン』のリブート作品であるように見えて、実はそうではありません。似て非なるものであるというのは、本編を観れば一目瞭然だと思いますが、どちらかと言うと「本来、ウルトラマンというのはこうこう、こういうものなんだよ?」という解説と紹介を作り手の視点から為そうとしている作品なのです。「ウルトラマンシリーズ」を新しいものとしてリブートするというよりかは、それはそれで尊重をしつつも、それらが描かなかった(描けなかった)部分を取り上げて、作り手なりの感覚と視点で表現しようとしている作品なのです。ということは作り手は「ぼくのかんがえたさいきょうのウルトラマンえいが」を作ったのかと誤解されてしまいそうですが、それとも違うのですよね。かつての「ウルトラマンシリーズ」を否定せずに「表現しえていない要素」を「表現」しようとしたのですから。それが「マルチバース」(多面世界)という概念を持ちこんだ理由なのではないだろうかと自分は思ったのです。
『シン・ゴジラ』での有名なセリフで「私は好きにした。君たちも好きにしろ」という言葉がありましたが、本作の作り手は本作を作るにあたってある意味その言葉をそのまま踏襲・実行しようとしたのだと思います。もう、ウルトラマンシリーズの様に「古くからあるコンテンツ」の中で最初に生まれた作品だけを過剰に神格化して祭り上げたり、後年の作品とやたらと比較してあげつらうような時代ではないし、今更ここまで来ちゃっているのだから、そういうのやめにしない?と言いたいのだと思うのですよね。そのコンテンツのどのシリーズのどの作品も「マルチバース」として対等に楽しむのがいちばん面白いんじゃないの?と言いたいのだと思うのです。
そう考えていくと、本作特有の映画としてのクセの強さも納得をすることが出来ました。一般的な映画としての文法を形式ばって用いて観るべき作品では無いですし、ニッチでマニアックなようでいて、実は非常に懐が深い作品なのではないだろうかと思います。

■「自分自身を"外星人"だと思う」という概念
これは自分自身にも思い当たる部分があるのですが、他の人々と同じように振舞えない自分は、もしかしたら「地球人」ではないのではないか…と夢想してみたり、或いは「俺"だけ"はあいつらとは違う」などと見下してみたりするようなことって、ある人は結構居るのではないでしょうか。
この作品は、そういった心理や考え方を、作り手が作品の中に巧妙に織り交ぜているように自分には感じられました。ともすれば身勝手な考え方に転がりかねない価値観ですけれど、そうとしか生きられないということが理解できる自分にとっては切実なものであるようにも見えたのですよね。そして何より、劇中での「外星人"ウルトラマン"」は、ネガティブな感情に囚われることなく、「地球人」を信じようと手を差し伸べてくれていました。平たく表現すると「友達になろうよ?」と手を差し伸べようとしてくれているように見えたのです。
それなら本作の"ウルトラマン"とは誰のことなのか…を書くのは、流石に野暮なのでやめておきますが、彼を通して作り手は「ウルトラマン」というコンテンツを使うことで、「より濃密なやり取り」を観ている観客も含めたこの世界全体に望もうとしたのではないかなと思ったのです。マルチバースに広がっていく世界で、自分だけではなく様々な立場の人間が対等に「コンテンツ」の表現をしていく。そういう作品が今以上に世に溢れることを望んで、作り手はこの作品を作ったのではないかな、と自分は感じました。
創作の世界が「リブート」を超えた、新たな領域に時代が差し掛かっていることを雄弁に語り、そしてさりげなくそのなかで遊ぼうぜと手を差し伸べようとしているこの作品は、そういう意味ではとても「優しい」作品なのではないかなと思います。
まぁ、それにしてはちょっとクセが強すぎですけどね…

※※

ということで、考えを巡らせていくうちに、実に今日的な、創作の世界が新たな局面に辿り着こうとしている姿の一端が見えたような気がして、とても強い得心を得ることが出来た作品だったように思います。
「シン・シリーズ」の意義と意味を明確に提示した本作を踏まえて、どこまでこの「世界」が拡張していくのか。今後も見続けていきたいと思います。
せーじ

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