ルッコラ

Mank/マンクのルッコラのレビュー・感想・評価

Mank/マンク(2020年製作の映画)
4.5

2024/4 再鑑賞

社会背景がわからずに上手く咀嚼できなかったのでしっかり下調べしたうえで再鑑賞。
かなり理解できた。こういうのを一発でわかるようになりたいもんだなー。

撮影過程を知ると映像と音響はさすが。とはいえせっかくキレイに撮れるのにそうやって加工してしまうのも勿体なく感じてしまう。
映像に関してはワイドに撮っているので古臭さをそこまで感じない。劣化させたといっているけど、やっぱり差がある気はする。
音に関しては狙った通りの違和感がすごい、今の映画と比べて別のところで鳴っている感じがする。そういうところなんだな。


物語も改めて見ると今見るべき映画なんだなということがよくわかる。
我々も「作られた作品、バイアスがかかった情報を摂取しているんだぞ」とわかる仕組み。この「マンク」という作品自体がそうなっている。
そのうえで社会に氾濫する情報をどうやって処理するのか試されている。
トランプの当選や(再選するかも)とブレグジットなど、現代社会でまさに同じことが起きている。

まあそういった警鐘は二次的なもので、本来は市民ケーンを取り巻く時代と人間への愛が第一なんだろうけど。
そしてそれに関しては自分も大いに共感する。





2023/5

ほんとなら4.5つけたい。


そもそも「市民ケーン」は大好き作品だし、作品のクオリティ自体も素晴らしいので、めちゃくちゃ面白かったんだけど、

恥ずかしながら舞台背景となる歴史そのものに無知すぎてわからない部分が多すぎた。

あとは引用が多すぎて見る人を試している。

こういう政治部分の解説どこかにないかなー。
あるだけで絶対に数段階面白くできるのに。

ので多分正確にこの作品を見られてないのでこれ。



作品全体が市民ケーンのような時代がかった映像、音楽、演出、効果音、撮影で作られているのがおもしろい。
それだけで画面にすいこまれる。


市民ケーンは何度もみているけど、絶対にレオナルドディカプリオだなと思っていて。
それも確信。






哀れなサラ ってドリトル先生からの引用なのかな?
偶然?





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ここからは、今作『Mank』に秘められた多層的なメッセージについて考察していきたい。

劇中で、ある人物が『市民ケーン』の初稿を指して、「時系列がバラバラ」「会話劇ばかりが続き、あまりにも台詞が多すぎる」とクレームを告げるシーンがあるが、これらの特徴は、そのまま今作『Mank』にも通じている。現在(1940年)と過去(1930年〜1937年)を、回想シーンを挟みながら何度も往来する構成となっており、かつ、登場人物が非常に多いため、少しでも気を抜くと、本筋の理解が追いつかなくなってしまう。

しかし全編を俯瞰して観ると、今作を通して描かれている真のテーマは、極めてシンプルなものであることが分かる。それはつまり、「映画とは何か?」「なぜ人は映画を作るのか?」という原初的な問いかけだ。

改めて言うまでもなく、映画は、カメラを通して現実を映し出す(切り出す)ことで成り立つメディアであり、身も蓋もないことを言ってしまえば、所詮、作り物(フィクション)である。たとえ、その作品がドキュメンタリーを謳ったものであったとしても、製作者の視点が介在する限り、そこには一定の作為が含まれてしまう。

しかし今作において、「暗闇の中で観たものを、観客は真実であると思い込んでしまう」という台詞があるように、映画には、観客(および、世論)の認識変容/行動変容を促す力がある。事実、劇中においても、そしてこの現実社会においても、映画がプロパガンダとして利用されるケースは少なくない。「良識ある有権者が、この映像に騙されるはずがないよな?」という悲痛な台詞は、映画が為政者たちによって悪用されてきた史実を踏まえると、ひどく胸を打つ。(そしてこの問題提起は、悲しいことに、ネット上に無数のフェイクニュースが横行する2020年においても通じているといえる。)

映画は、作り物であり、時に社会的に悪用されてしまう可能性さえある。それでは、映画の存在意義とは何なのか? なぜ、歴代のクリエイターたちは、人生を懸けて映画を作り続けてきたのか?

今作の中で、マンクは一つの回答を示している。

たとえ単なる作り物であっても、たとえ世の中を混沌に陥らせてしまう可能性があっても、この世界には、人生を懸けて語るべき「物語」で溢れている。そして、そこに込められたメッセージに触れ、心を動かされた観客一人ひとりが変わっていけば、いつか世界は良い方向へと変わっていく。それこそが、「映画の魔法」であると今作は訴える。

『市民ケーン』では、権力を追い求めた結果、結局は心からの幸福を掴み取ることができなかった孤独な人生が描かれるが、『Mank』は、まさに対照的である。自身の脚本家人生を全て懸けて、巨大な権力に対して一世一代の大勝負に挑むマンク。そのストレートに燃える王道の展開に、思わず胸が熱くなる。いくつもの逆境を越えながら、自身の「最高傑作」を世に送り出そうとする映画クリエイターとしての生き様に、心を奮い立たされる人は、きっと多いはずだ。

今作『Mank』の主人公 マンクが、確固たる信念をもって映画製作に挑む姿に、フィンチャー監督自身の姿を重ねて観ることもできる。その意味で今作は、フィンチャー作品の中でも、最もエモーショナルな一本なのかもしれない。




マンクが『市民ケーン』を書いた理由
さて、この映画は事実に基づいていますが、完全なノンフィクションというわけではないようです。正直私には、どこまでがフィクションでどこまでが事実なのか明確にわからないのですが、この映画が提示した「マンクが市民ケーンを書いた理由」は、ハーストのやり方を批判したかったからなんだなと感じました。マンクはハーストに気に入られており、交流がありました。近くでハーストを見ていたマンクが彼を批判するシナリオを書く動機となったのが、1934年のカリフォルニア州知事選です。

映画を見る限り、マンクは社会主義を支持しています。ガチガチの社会主義者ではなさそうですが、労働者の給料は半分もカットしておきながら自分は痛みを負わないメイヤーのような経営者層・支配者層に思うところがあったのでしょう。大恐慌の時代ですから、労働者層の貧困が深刻になっている時でもあります。知事選には、共和党からフランク・メリアムが、民主党からは富の再分配を訴える社会主義者のアプトン・シンクレアが立候補していました。ちなみに、アプトン・シンクレアはアメリカの小説家で、ポール・トーマス・アンダーソン監督の『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド(原題:There Will Be Blood)』の原作小説『石油!』の著者です。富の再分配などに賛同するはずがないハーストやメイヤーはフランク・メリアムを支持していて、マンクはシンクレアを支持していました。ハースト家で皆で政治や世界情勢について語るシーンがありますが、マンクはメイヤー達にアカ呼ばわりされていましたね。経営者層が集まるあの場では、ほぼ皆がメリアムを支持しているのでしょう。

そして、マンクの友人であり映画監督であるシェリー・メトカーフの自殺が起こります。MGMでは反シンクレア基金が立ちあげられ、マンクもタルバーグから寄付するように圧力をかけられていました。マンクは寄付を断りますが、その時マンクはタルバーグに「あんたはウソをつくのが上手いんだから、”社会主義者はカリフォルニアの敵だ”と腹を空かせた有権者に思い込ませろ」と言います。恐らくマンクは何の気なしに言ったのでしょうが、マンクの言葉からヒントを得たタルバーグはプロパガンダ映画を撮ることにし、その監督を任されたのがシェリーでした。誰に投票するか有権者にインタビューしている映像を役者を使って撮影し、市民の生活や仕事を守ってくれるのはメリアムであるような台詞を言わせ、それがあたかも本当のニュース映像であるように見せかけたのです。マンクはタルバーグにやめるよう訴えますが聞いてもらえず、プロパガンダ映画に金を出しているのはハーストであることを知ります。イエロー・ジャーナリズムで有名なハーストですから、嘘で世論を扇動することには慣れているでしょう。結局、潤沢な資金を持つハーストやメイヤーによってネガティブ・キャンペーンを展開されたシンクレアは選挙で敗北。そして、でっち上げ映像を撮ったことを後悔したシェリーは自殺してしまうのです。友人として、同じ映画人として、シェリーの後悔と死にマンクはやり場のない怒りを覚えたことでしょう。

マンクはアルコール依存症で皮肉っぽく、一見、弱者救済するようなタイプには見えませんが、実はヒトラーが台頭しているドイツ在住のユダヤ人を村ごと支援してアメリカに移住させていたりと、めちゃくちゃ善良な事してるんですよね。ナチのやり方を批判しているマンクにとって、ナチと同様プロパガンダを用いて民衆をコントロールしたことも許せなかったはずです。だからこそ、上映妨害の圧力をかけられようが、なんとしてもハーストをモデルにした『市民ケーン』を世に出したかったのでしょう。映画を悪用した権力者が逆に映画に利用されて後世まで悪評を知らしめられるのは、痛快ですね。

現在でも共通する問題
ウソの映像で民衆の思想をコントロールするという手法は、フェイクニュース問題として現在でもあります。アメリカ大統領選挙で特に耳にした言葉ですし、実際様々なデマや切り取った映像で意図を歪曲したようなものが世論を惑わせました。マンク達がナチのことを話している時、タルバーグは「誰もやつ(ヒトラー)のことなんか真に受けない」と言っていますが、ナチがどうなっていくかは皆さんご存じの通りです。偽のニュース映画を撮ったシェリーも不安げに「大人なら信じないよな?」と口にしますが、シンクレアの敗北を招きました。我々は存外簡単に信じやすいのでしょう。あたかもニュースのような体裁をとっていたり、政治家や権力者から発せられたものはなお更信じてしまいがちですよね。

現在はSNSが発展し、ユーザー側にも嘘を嘘と見抜く力が求められていて、一時ソースを確認せずに安易にデマやフェイクを信じたり拡散すれば批難されることもあります。しかし、世の中には自分の目で事実を確かめられないことだってたくさんあり、メディア側が自分たちの主張に都合の良いように報道することだってあります。メディアや記者によってはそれぞれ支持する政党や思想があり、フェイクではなくともその色眼鏡を通した記事を読めば知らぬうちに自身も偏っていくことがあるでしょう。さらに近年は技術が向上し、フェイクと見抜くのがより難しいディープフェイクも問題になっています。嘘との戦いはマンクの時代よりもシビアになってきているかもしれませんね。いついかなる時も完全に客観的でいることはもちろん不可能ですが、ジャーナリズムの名の元では可能な限り正確な情報を客観的に伝えてもらいたいと思うばかりです。

そして、嘘やフェイクを利用して扇動したり印象操作することを批判している『Mank/マンク』という映画自体が、事実とフィクションで構成されてるのも面白いですね。あくまでフィクションだってわかっていても、どの部分が虚構なのか知らない人にとっては、これがすべて事実であったように受け取る可能性はあります。真実の中に嘘を混ぜられると、その嘘も真実と認識されてしまいやすいものです。
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