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郊外の鳥たちのnetfilmsのレビュー・感想・評価

郊外の鳥たち(2018年製作の映画)
4.4
 測量機のスコープの映像は周囲がぼやけ、中心部すら曖昧でぼんやりとしか見えない。何が起きているのか判別出来ないカメラはどこに置かれているのかを明らかにしたところで場所と距離が定まる。無造作に置かれた5段標尺からその距離10mと言ったところだろうか。高低差はないものの周囲の雰囲気は未開拓で、左側から突然バイクがフレームに姿を現すのだ。測量チームの距離感も絶妙だ。測量レンズを見つめる者に交じり、双眼鏡で遥か向こうを眺める者がいるが、彼は数100m先の団地の鉄塔を登る子供の姿を発見する。鉄塔を登る少年の姿に大人たちは「やめろ」と大声を挙げるものの、少年の上への欲求は止まらない。心底ギョッとするようなオープニングだ。地盤沈下が進み「鬼城(ゴーストタウン)」と化したとある中国地方都市の地質調査に訪れた青年ハオ(メイソン・リー)は、仲間たちと地盤沈下の原因を調査している。その様子がホン・サンスのような何気ないズーム・インとズーム・アウトで描かれる。昼間は真剣に調査にあたり、夜は見知らぬ街で酩酊する。すっかり酩酊し、突然走り出したりする者がいる一方で、ハオは地質研究で出会ったツバメ(ホアン・ルー)に恋をする。いつ恋が始まり、互いの好きが溢れたのかさっぱりわからない。各々のホテルの部屋の前で行われる細やかなアイ・コンタクトと内線電話のクローズ・アップ。夜明けのコーヒーならぬ翌日の朝食に出て来た白い卵を彼女の口に差し出す何とも奇妙で珍妙な前半部分から、突然物語は動き出す。

 そこから先はあまりにも不思議で、あまりに取り留めもない幻想譚だ。アパートの階上でよろめく主人公の姿は小学校の教室にある。彼が机の中に手を伸ばし見つけるのは、自分と同じ名前の男の子の日記。それがある種のワームホールとなり、主人公は少年時代の自分と現在の自分とを自由に往来する。どこまでも透明でどこまでも純真無垢な子供たちの世界。そこに終止符を打つような郊外の再開発の夥しい波と、結果としての地盤沈下。『スタンド・バイ・ミー』のような彼らの思春期の旅は再開発の進むビル群を避けるように、自然豊かな未開の地へと分け入って行く。赤いパーカーと赤い帽子、赤いスカーフ。そしてハゲを覆う様な彼女の髪の毛。草むらに落ちた双眼鏡。覗き見る対象はまた逆に彼方からこちらも凝視する。永遠に孵化することのない卵の交差とハオを愛したキツネ(チエン・シュエンイー)とティンティン(シュー・シュオ)との三角関係。幼少期の8人の相関関係を踏襲したような測量チームの関係性はある意味、主人公ハオのここではないどこか(幻視)に他ならない。未熟で凡庸だった幼少期の恋を綴りながら、彷徨の途中で1人また1人と次々に引き裂かれて行く彼の友達。一瞬の刹那の中で突然アパートに舞い戻ったキツネに似た人物との思い出の向こう側。

 カフカの『城』のような不条理劇は実はもう1層構造を有していることがクライマックスで明らかになる。2度起こるハッピー・バース・デイの多幸感なき喜びから不意にまどろみの中へ。後半の無秩序なSF展開は混乱を呼ぶが、幸福な青い鳥を巡る彼らの堂々巡りの旅。微睡みから目覚めて気付くチューインガムが潰す視野。微睡みから目覚めて怒り狂ったところであの頃の僕たちはもうここにはいない。少女が愛した犬の咆哮とコンクリートの中にぽっかりと空いた穴。トンネルの天井に書かれた奇妙な壁画。渇きと鼻血。双眼鏡から見つめたあの日の私たち。鳥たちのさえずりはもうここにはない。今ようやくフー・ボーの穴を埋めるような突出した才能の登場に驚愕する(製作は2018年)。ホン・サンスの真似事はおそらく表層だけで、チウ・ション監督はアピチャッポン・ウィーラセタクンやツァイ・ミンリャン、初期のエドワード・ヤンの温度感を念頭に置いている。今年これまでで最も難解で、不思議で不条理で、どこか示唆に富む奇妙にねじれた傑作。
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