せーじ

るろうに剣心 最終章 The Finalのせーじのレビュー・感想・評価

2.6
326本目。

■はじめに―ぼくと「るろ剣」と「人誅編」と
自分が『るろうに剣心』という作品に触れてハマったのは、中学生から高校生にかけてという一番多感な時期でした。ほぼほぼ直撃世代と言ってもいいと思います。『ドラゴンボール』などとは違う、強さが過剰にインフレしない「リアル」な世界で、「殺さないこと」を肝に銘じつつ己の身体を削って敵と対峙する、元維新志士側の人斬り…という主人公像とストーリー設定に惹かれ、コミックスを集めるくらい家族でハマりました。軽妙なギャグも大好きでしたし、何より主人公である緋村剣心の、のほほんとしたふだんの性格とは打って変わった、殺気立った修羅の表情で戦う姿に惹かれたのですよね。高校では毎週月曜日に友達と週刊少年ジャンプを回し読みさせて貰ったりして、同級生のあいだでもこぞって楽しんでいた作品だったと思います。
そんな中、作品の中では後半から終盤にあたる「人誅編」は、読んでいてものすごく好きで愛着がありました。内容はそれまでのエピソードと比べても明らかに暗く、ファンの間でも賛否が分かれるような悲劇的展開(後述します)があったりもして、当時のジャンプの連載作品の中でも人気が下の方に落ちてしまうようなことが続いていました。正直自分も読んでいて辛かったですし、後年描いていた作者自身も辛かったと言われているので、今思うと連載されていたあの頃は、ファンも作者も誰も幸せではなかった日々だったのではないかなと思います。
しかし、それでも「人誅編」は、るろ剣を楽しむうえで外すことのできない要素でありエピソードであると自分は今も信じているのです。何故かというと、「人誅編」は、主人公が本気で自分自身の犯してきた罪と向き合い、絶望から再生していこうとする話、だったからです。そういう話が好きだったからというのもあるのかもしれないですけど、文字通り一人の人間の生きざまを描ききろうとした作品だったから、なのですよね。

なので、このエピソードが大友組によって映画化されると聞いて、自分は正直不安を覚えてしまいました。
大友監督が手掛けた実写映画の「るろ剣シリーズ」は、どちらかというと派手な高速アクションが主軸で、それ自体は原作のバトルシーンにも通ずる面白いアイディアだったなとは思いますが、るろ剣には欠かせないはずの人間ドラマが薄めなんだよな…と自分は常々感じていたからです。過去レビューで大友監督が手掛けた『三月のライオン』でも酷評しましたが、映画として手堅く無難にまとめ上げることを目的に、作品そのものの訴えかけようとする幹となる内容を無視して都合よく省略してしまうような作り…が多かったのですよね。実際これまでの大友組による「るろ剣」でも、登場人物は全員映画の登場人物として扱いやすいシリアスな方向にキャラ付けがなされ、原作のような独特なコミカルさや柔らかさは、ほとんど描かれていなかったのです。まぁ少年コミック的なギャグを実写でやる訳にはいかないというのもわかりますが、原作から取り上げられたそれぞれのエピソードも微妙に映像化しやすい方向で改悪されてしまい、自分にとってはなんだか別物のような出来になってしまっていたのです。そんな座組で、大友組得意の派手なアクションが描ける「京都編」まではともかくとして、大友組が苦手な人間ドラマが主体の「人誅編」を果たして描き切ることができるのか…自分はとても不安だったのです。

※※

そして残念ながらその不安は当たってしまうことになります。
観終わって「やっぱりダメだったか…」という想いを強くしてしまいました。以下、つらつらと不満に思った部分を書いていきたいと思います。

■暗く、不自然な画面と不自然なプロット
まず思ったのが、画面が暗すぎるということでした。テレビで観ていて、かつ夜間のシーンが多いからなのかもしれないですけど、暗すぎて登場人物の表情はおろか、画面上で誰がどう動いているのかすらわかりづらかった場面が多かったです。明暗をうまく使った最近の時代劇といえば、真っ先に思い浮かべたのが『鎌倉殿の13人』でしたけど、あの作品と比べると一目瞭然だと思います。登場人物の感情表現や心境に合わせて明暗をうまくコントロールするという本作と同じようなことをしているのに、こちらの方が光の表現として圧倒的に弱かったのです。光の当て方というか、明るさのコントロールが出来ていない様に感じられてしまいました。…まさか暗い話だから画面を暗くしようとしたのでは…ないですよね?
加えて、明らかにおかしいと感じてしまったのが「小雪」がちらつく演出でした。何のための意図と演出なのかはすぐにわかりましたが(事件の裏にある巴の存在を暗に印象付ける為の演出ですよね)中盤以降、晴れて陽が差している時にもずっと舞い続けていたのは流石に不自然だったと思います。
他にも、敵がやってきたのに神谷道場の人々が全員棒立ちで構えたりすらしないとか、チュッパチャプスをくわえているかのように、どんな場面でもタバコを吸い続ける斎藤一さんだとか、何かを嗅ぎ付けて独自に行動したはいいものの、あえなく重傷を負ってしまう蒼紫様だとか、あんなにどったんばったんしていたのに相変わらず神谷道場の庭に放し飼いにされっぱなしのニワトリだとか、このあたりはもう今更ツッコミを入れても仕方が無いですよね。でも、冒頭の横浜駅での縁と警察のくんずほぐれつと釈放劇は、正直な所要らなかったのではないかなと思います。あれを冒頭に置いてしまうと、その後の被害は不用意に縁たちを泳がせた警察のせいだってことにもなりかねないですし。開幕いきなり赤べこ爆破…でも良かったのではないかなと思うんですけどね… というか鯨波さんがアームストロング砲を撃つシーンがダサすぎ… ご神木を背に撃ったという剣心の見立て通りじゃないし、鯨波さん、一発撃った後に吹っ飛んでいましたよ?あんなんでどうやって連射が出来るのかも謎でしたしねぇ…
後半のくだりも、剣心が一人で縁たちのアジトに乗り込むのですけど、いつの間にかほかの仲間たちも飛び込みで合流するんですよね。どこから縁たちのアジトの場所を知ったのでしょうか。左之助なんかそれまでの戦いで瀕死に近い重傷を負ってたのに。それだけならまだしも、最後の展開で「薫殿…おぬしどこから?」となってしまいました。その直前まで薫殿は閉じ込められていたのに、です。ちょっとあまりに、プロットを描く上で諸々のロジックを無視しすぎなのではないでしょうか。

しかし、肝心な部分がキチンと描けていたのなら、それだけならまだ…まだこの作品を許せたかもしれないのですけど、決定的にダメだなと思ってしまった要素があるのです。
(以下、ネタバレを含む批判をしますのでご注意ください)

■最も描くべきだったこと
「人誅編」というのは、はじめにも書いた通り「主人公である緋村剣心が己の過去の罪と向き合う話」なのです。姉と姉の許嫁を「抜刀斎」によって殺された雪代縁が、復讐の為に精神的に剣心を追い詰めて殺そうとする話、なのですよね。原作の展開ではそれは途中まで完璧にうまくいき、その結果剣心はある悲劇によって文字通り「殺され」、廃人となってしまうのですが、そういった所から文字通り這い上がって再生し、最後には縁の暴走を止める…という話であるはずなのです。

そこを何故描かんのかい!!!!!と思ってしまいました。

もちろん、この要素を取り入れると話がもっと複雑になってしまいますし、そこまで物語を描き切るのは難しいという判断もあったのでしょう。でもこれ…「人誅編」では一番重要な部分だと思うのですよね。冒頭の警察の無駄なじゃれあいや、剣心が佇むイメージ映像とかを全部カットしたら、やれそうな気がするんですけどね。それか「追憶編」(the beginning)を別にするのではなく、キチンと原作通り「追憶編」を回想として描くとか。
またしても大友監督お得意の「映画の為の都合のいい改変改悪」が炸裂してしまったな…と思わざるを得なかったです。
改変改悪といえば、鯨波(アームストロング砲を撃っていた大男)を剣心が倒した後に「新時代に生きてくれ」と言って見捨て、その後は登場させないというのも腹が立ちました。原作ではその言葉そのものが、鯨波が剣心に復讐心を持つきっかけとなってしまったはずなのに、そこから先を省略してしまったのですよね。
大友組の悪いクセが出ていると思ってしまいました。その先を「こそ」、絶望からの救いをこそ描くべきだったのに。
そういった「絶望からの再生」を描かずに最終決戦に挑む姿を描くのは、作品の内容の根底から意味合いが変わってしまうのではないかと思うくらい悪手だったのではないかなと考えます。

※※

ということで、結論としては、悪い意味で「いつもの大友映画」だったと思います。
いちおうbeginningもルーレットリストに入れるつもりですが、たぶん酷評すると思います。もうこの監督の原作アリの映画作品には期待しない方がいいですね。
あ、ただ、評価するとするならば一つだけ。土屋太鳳さんがすごく頑張っていました。おそらく登場人物の中ではいちばん頑張っていたのではないかなと思います。彼女の迫力あるバトルを観たい方は、まぁどうぞ。
(そこに辿り着くまでだいぶ長いですけど)
でも、るろ剣の「人誅編」を楽しむなら、原作を読むのがおすすめです。
せーじ

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