Daisuke

アンダー・ユア・ベッドのDaisukeのレビュー・感想・評価

アンダー・ユア・ベッド(2019年製作の映画)
3.6
[名前を呼んで]

※後半、ネタバレを含め「自分は何故か狂気を感じなかった」という点と「なぜ名前を呼ばれたいのか?」について書いています。(ここからネタバレと書きます)

映画を見始めると、ベッドで這い蹲り、頬の感覚がなくなっていく青年がこちらを見ている。とても気になる始まりだ。そこから「何故こうなったのか?」をモノローグ(心の声)形式で事の顛末まで綴られていく。

鑑賞する前は「R18」ということもあり、今作ではどこまで「狂気」に踏み込んだ映画なのか、恥ずかしながら私はそういう部分を少なからず期待してしまっていた。
しかしこの映画は「変態」「狂人」といった種の人間を描いているのにかかわらず、不思議なことに「変態性」や「狂気性」を感じない作品だった。
予告でもわかるように、マネキンに洋服を着せて好きな女性がつけていた香水をつける主人公や、妻の髪の毛を掴んで振り回すDV夫など、一般的に見れば確かに「狂った」描写は多い。けれど私には「狂気」の匂いが全くと言っていいほど香ってこなかった。

そもそもこの主人公の「彼女を見ていたい」という行動原理の本質とは何だろうか。それは「好きだ」という純愛とはまた別の「忘れられていく事への喪失感」だけだろうか?私は、ただそれだけではないような気がしていた。 この映画をザックリと『好きになった女性に「自分の名前を呼んでほしい」と願う青年の、狂おしくも純粋なる物語だった』と書くこともできるが、

では何故「名前を呼んでほしいのか?」について、私は考えていた。

おそらくその答えの中に、私がこの映画に対し「狂気性を感じない」という部分と、何か関係があるような気がしていたからだ。





ーーーーーここからネタバレーーーーー




まず何故三井は「名前を呼んほしいのか?」の私なりの考え方を書く前に、どうしても気になる部分が多かったのでそこを書いておきたい。
少々否定的な言い回しになってしまうかと思うが、そこは「個人的な好み」と映画の見方なんて全然わかってない「愚か者のたわ言」だと思ってほしい。

[モノローグについて]
まず、この映画の大きな構成の一つとして、心の声を使った「モノローグ」がある。
観客に主人公「三井」の心情を言葉で明瞭に伝える手法だ。
こういったモノローグを使用すると、映画全体がそのモノローグを語ってる者の視点、つまり「一人称視点」である事が強調されるため「三井の視点で映画が流れていく」ことになる。
そして後半では三井の視点ではなく、想い人である「千尋」の視点が追加される事が監督の狙いのようであった。(鑑賞後のトークショーでもそう言っていました)ここは好みかと思うけれど、個人的にこのモノローグがあまりに多いため、映画内で起きている時間(その場にいるような感覚)が薄くなってしまっていたように思っている。
映像だけで観客に想像させるようなカットが少なく、間髪入れずにモノローグで「明確な説明」が入ってくるため、見ている自分の想像を主人公に拒まれているような気さえしてしまった。そしてその前半の説明すらも、実は後半では「妄想でした」とモノローグで言われてしまう。できれば映像だけで見せ、私たち観客の想像力を信じてほしい。
そうしなければ、主人公は私の近くまで来てくれず、遠いスクリーンの向こう側のままだ。

[前フリの無い狂気について]
今作では三人の危うい人物たちが描かれる。
三井という人物は名前を呼んでくれた千尋に対して、純愛を超えた行動を起こしていく。DV夫はフォークで手を串刺しにする残忍性を持ち、さらに千尋は暴力を受けるが、そこから逃げたくともすぐに行動を移せないでいたりする。
まず、私が映画の中で「この人は本当に怖い」と感じるのは、変態的な行動をとってる時でも、暴力を起こしてる時でもない。
普通に見えている人が「変貌する瞬間」である。
例えば夫が近所の奥様たちと仲良く会話してるところが描かれ「なんていい旦那さんなのでしょう」と見せた後に、自宅の玄関を閉めたら口調や表情が一変する、といった瞬間だ。
この映画ではそういった「変貌」が一切描かれていない。
旦那は出始めから常に言葉も悪く常に暴力を淡白に振るう。
主人公も壁一面に写真を貼ったり、マネキンに服を着せて香水をかけたりと、行う行為そのものは異常かもしれないが、その前に「通常の人との関わり」を見せていないので、どれも記号的なものに見えてしまった。
つまりDV夫の暴力も痛そうに見えず、三井の変態性も前振りもなく唐突に始まるため、既視感だけが強くて独創性も感じなかった。
もちろんこの映画は「狂気」そのものを映像化しようとは思っていないのかもしれない。主人公の狂った行動の中に潜む「純粋なる愛」を見せたいのかもしれない。けれど私は狂気がしっかりと表現されればこそ、純愛がもっと深く映し出す事が出来たのではないか?と思っている。
映画内での「狂気」は、誰もが感じるリアルな日常の描写(人物、背景含め)という前フリがあり、そこであきらかに「人間を逸脱した行為」が起きる事で初めて「狂気」というものが伝わってくると思っている。そしてリアルな狂気が生じてこそ、その狂気を行った者の裏には一体何が潜んでいるのかと、そこでようやく私たち観客は「狂気」そのものへ、つまり主人公そのものへ真剣に思考を始めるのだから。

[何故、名前を呼んでほしいのか]
ここまでとても否定的に書いてるような感じでとても心苦しいが、それはこの後に書く部分がとても興味を抱き、実はちょっとしたバランスが苦手なだけで、とても好きな骨格を持った作品だったのではないか?と思っていたりもするからだ。
ここから書く自分の見方は、原作ではなくあくまで映画で映されたものだけでの見方である事を付け加えておく。
まず、彼が大人になっているのにもかかわらず「オムツ」をしているという点が大きく気になった点だ。それと彼の回想には「母親」が一切出てきていないという点。「オムツ」を履いている三井を見ると、彼の心の中はまだ「小さい子供」なのでないか?と思ってしまう。
となると、彼にとって「千尋」というのは「母」の代わりだったのではないか?という見方だ。
少々短絡的な見方かもしれないが、彼は父親だけで育てれられ母親という愛を受けずに育ってきた。そこで「千尋」に「母」なる愛を重ねてしまい、彼女だけを追い求める衝動が起きてしまったのではないだろうか?
何故かというと、母親というのは「自分の名前を呼んでくれる初めての存在」でもあるからだ。三井はずっと欲しかった母親からの愛を「千尋」の中から感じてしまった。つまりもう一度だけ、

「母親に名前を呼んでほしい」

これが三井を突き動かす衝動の本質なのではないだろうか?
ベッドの下で、三井は軋む音に手を差し伸べるが、あれは母親の「胎内」で鳴る鼓動音のようなリズムであり、胎内回帰のような光景でもあった(ベッドの上ではセックスという生殖行為を行ってることも含め)、というのは、流石に深読みしすぎだろうか。

[おわりに]
「モノローグ」や「前フリの無い狂気」によって、私にとっての主人公「三井」は記号的でファンタジーな登場人物となり、そして「母」の幻影として「千尋」を見ていたのだとしたら、やはりそこにはもう私が見たい狂気は存在しないのは当たり前だった。
この映画は、おそらく少ししたら「忘れて」しまうだろうと思っていた。

けれど、この映画のラストシーン。
最後の最後、ここで私が好きな映画の形が現れた。

モノローグも無く
音楽も無く
表情だけが映し出される

あの瞬間の三井だけは、私にとって
「忘れられない存在」になっていた
Daisuke

Daisuke