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さよなら、退屈なレオニーのkyのレビュー・感想・評価

さよなら、退屈なレオニー(2018年製作の映画)
3.7
フレッシュな作風と退屈なレオニーが複雑かつ巧妙に絡む。
セバスチャン・ピロットは、ジェームズ・キャメロンとグザヴィエ・ドランに次ぐカナダの奇才なるか。


あらすじ
カナダの街ケベックで暮らす高校卒業を控えたレオニー。
彼女は退屈な街、母親とその再婚相手に苛立ちを隠せずにいた。
そんな彼女の唯一の頼りは離れて暮らす父親だけ。
ある日、年上のミュージシャン、スティーブと出会うと、彼からギターを習うことになったレオニーは…。


感想・考察
フレッシュな作風とフレッシュな少女レオニー
どこかで見たような。そう、映画「レディバード」に似ている。そう思ったのは最初の最初だけでした。もちろん似ているところもありますが、似て非なるとは正にこのことかと。確かに、心にぽっかりと穴の開いたような空虚感や虚無感のような、少年・少女時代特有の機微は確かに見て取れます。
ただ圧倒的に異なると思ったのが、他の映画はもとより、特に「レディバード」のような思春期の主人公に象徴されるような情緒がないこと。それは主人公への投影・共感といった感情が蔑ろにされているということと同意かと。そのため、実際レオニーには観客が自己投影することのできるポイントは愚か、共感するポイントもなかなか見当たらないのです。
作中でレオニー自身が述べていたように、彼女が複雑な環境に身を置いているのも、共感ポイントがない所以です。実際に代理母や修道院のバイトなど、わかりそうで明確にはイメージできない描写が多々ありました。
そういう意味では、フレッシュな作風です。いうなれば観客が置いてきぼりにされる映画でもあったのです。しかしながら、その置いてきぼり感が、今思えば空虚にも関わらずハイスピードに過ぎていく少年・少女時代の日常をうまく表現しているようにも思えてきます。そういう意味でもフレッシュだけれど難しい映画にも違いませんでした。

ジェームズ・キャメロンとグザヴィエ・ドランに次ぐカナダの奇才か
カナダの映画監督といえば真っ先に思い浮かべるのはグザヴィエ・ドランとジェームズ・キャメロン。というか彼らくらいしか知りませんが、それに次ぐ奇才になるのではと思わせるのが、今作の監督セバスチャン・ピロットでした。
フレッシュな作風でフレッシュに主人公を描けるというのは、かなり難易度の高いことなのではないかと感じます。先の置いてきぼり感や良くも悪くもイメージできそうでイメージしにくい描写や設定というのも、複雑に巧妙に練り込めれているからこそ。すると奇才と言わざるを得ない監督なのではないかと思うのでした。
共感や投影ができないというものの、表面をなぞれば少年・少女時代の苛立ちや虚無感などふに落ちる点はあります。ただ、等身大でレオニーの視点で物を見れるかといえば、そうではないのかなと。
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