Daisuke

メランコリックのDaisukeのレビュー・感想・評価

メランコリック(2018年製作の映画)
4.0
[裸]

※後半、個人的な解釈を含めネタバレを含めて書いてます(ここからと書きます)

閉店した銭湯で人を殺して処理をする。
考えてみれば「人を消す」のに、こんなに合理的な場所はない。血が周りに飛び散ろうが水と洗剤ですぐに洗い流す事ができ、死体は風呂の水を温める燃焼室で燃やすことができる。
本当にこういった銭湯が実在するかもしれない、という「舞台自体のリアリティ」はドッシリと広がっている。

しかし物語の全体は、ポスターの右上に小さく書かれている通り「巻き込まれ型サスペンス・コメディー」であり、鬱々として重いテンションの映画ではなく、シナリオは二転三転し、恋愛要素もあり、登場人物達全員がしっかりと機能する「エンタメ」要素が強い作品だった。
自分が見た劇場でも幾度となく笑いが起きていた。

その「笑い」が起きる要因として、東大卒ニートの主人公がその主な起点となる。どうもボンヤリとして「殺し」に今ひとつリアルを感じていない彼が、少しずつ愛くるしいキャラクターとして見えてくるからだろう。それとコメディーとはいえ「殺し」「死体処理」を行なってるという「緊張」が、“ゆるい”キャラクター達によって「緩和」する事で、笑いの基本的な要素がもたらされていたのだと思う。

この映画はコメディー要素であるその「ゆるさ」が一つの味になっているが、かといってリアリティのレベルが著しく下がっていないバランスなのが素晴らしい。これは個人的な感覚だが、その逆で、一見ゆるくてライトに見えるからこそ「殺し」や「死体処理」が日常的に行われているという薄気味悪さが際立っていたように思うからだ。

そして、この映画のタイトル「メランコリック(melancholic)」とは「憂鬱(ゆううつ)なさま」や「ふさぎ込んでいるさま」を意味する言葉である。

たしかに東大卒ニートの彼は冒頭、全く働きもせずにボンヤリと憂鬱な雰囲気が漂っていた。
しかし、私はあの映画で本当にメランコリックだったのは“あの人”なんじゃないかと思っていた。

ライトに楽しめるコメディー映画。
けれどその裏側で、世代が離れた「雇用の上下関係」なども浮かび上がってきているように見え、
この映画は何か「日本の今」も垣間見えるような気がしていた。





---ここからネタバレ----



ここからまたいつものように私なりのメランコリックの見方を書いてみたい。今回は3つ。

1[雇用の上下関係]
2[本当にメランコリックなのは誰か]
3[ラストに映る、ボイラーの1カット]
終わりに


1[雇用の上下関係]

まずこの物語のポイントのひとつに「請負(うけおい)」という点がある。銭湯「松の湯」のオーナー東は、自らの意思で殺しを行なって“経営”しているのではなく、ヤクザに言われ渋々銭湯を使い、殺し屋を雇って仕事を行なっている。
この映画では銭湯での「殺し」の描写や「死体処理」の描写は一応あるものの、濃密な描き方はされていない。それより具体的な描写が徹底されていたのは、ヤクザから東や松本に「やってくれるよね?」と仕事の請負をさせるシーンだ。ここにたっぷりと時間を割いていて、どうしても上司に頭が上がらない部下のような歪な空気を感じさせ、妙なリアリティを感じていた。後で知った事だけれど、この映画の田中監督(脚本も担当)はサラリーマンとして働きながら映画監督をしているそうだ。もしかすると、この妙な「上下関係描写」の力の入れようは、そのサラリーマンでの経験からきているのかもしれない。
映画ではエンタメとして「殺し」として描かれているが、どうしても上の意見に逆らえず「大変な事」を請け負い、下に繋げていってしまうという事がある。そしてその大変な事というのは請負が続いていくと、主人公のように実感もなく希薄になって続いていく。そんな恐ろしい「現代の一端」を垣間見たような気がしていた。

2[本当にメランコリックなのは誰か]

この映画の主人公は確かに東大卒なのに働きもせず、コミュニケーションも少し下手な感じで常に「憂鬱」なイメージはある。けれど、その中にある「鬱」な感じは見受けられない。そもそも序盤から同級生だった女の子にわかりやすくアプローチされ、それをストレートに受けて「お付き合い」という成功までしてしまう。ラース・フォン・トリアーの「メランコリア」では社会に毒されて鬱病になった主人公が、地球に衝突する惑星を知り“逆に”鬱が晴れていくような流れだったが、今作の主人公は死体を処理する事で憂鬱な気分が晴れていく、という見方もできる。
しかし、私個人の見方としては本当にメランコリックだったのは、やはり「東」だったのだと思っている。
前述したように、借金があり、ヤクザに殺しを押し付けられ、有無を言わせないあの上下関係に我慢をする。東の言動が優しい口調から急に厳しい口調になったりまた優しく戻ったりするのも躁うつ病のような雰囲気が何度もあり、最後に松本を裏切るのも精神状態が安定していなかったからだと思っている。

3[ラストに映る、ボイラーの1カット]

この映画は良い意味でとてもライトな印象で「殺人を行なっている」という事をコメディーの見えない力で緩和しラストは皆で打ち上げを行い「楽しい映画だった」というサッパリとした後味を残すような作りになっている。しかし、よくよく考えてみると本当にサッパリと終わっているのだろうか?

まず、この映画の大きな流れをざっくり抜き出せば「仕事をせずふさぎ込んでいた主人公が、銭湯での仕事や仲間とともに成長する話」と言える。確かに主人公は最後に彼女に対し「実は今まで働いてなかった」と告白し、彼女もまた「実は電気やガスが止められてお風呂にきていた」と告白する。ちょっと上手い事(くさいこと)を言うならば、銭湯という場所で「その瞬間、初めて二人の心は裸になった」とも言える美しく見えるラストだ。しかし、本当の意味で心を裸にしていただろうか?

ニートだった青年が働く事で、心が解放されたと言えば聞こえはいいが、その裏では殺しの手伝い、そして直接的な殺人も行なっているのだ。つまりラストに「実は人を処理しててさ」と告白してこそ、本当の意味での「裸」つまりは彼の成長なのではないだろうか?
(もちろん殺してます、ってあの場で言えるわけはありませんが笑)

そして楽しく宴会をやっているラストシーンで「この瞬間が続けばいい」といったような下りで幕を閉じるが、1カットだけ燃焼器、つまり死体処理をしていたボイラーが映る。あのカットとあのモノローグ、最後のカットで静止画として「止め絵」になる。
これを勝手に解釈すれば、主人公の地獄は始まったばかりというラストに見える。ヤクザが一人消えてはい終わり、と済むほど闇社会は甘くはない。あのボイラーの1カットはいつかやってくる「主人公に迫る死」を暗示させ、ラストカットの止め絵も「幸せはここまでだった」という花火が舞い散る最後の一瞬と同じような印象を受けたのだ。

[終わりに]

と、ここまで色々と書いてきたけれど、
あくまで自分の見方であり、鑑賞した人達でワイワイ楽しく話すには最高の一本だと思っている。それにしても「松本君」は本当に大好きなキャラクターだった。
彼は今までどんな生活だったのだろうか。
一見、登場人物たちのなかでは憂鬱な感じに見えない松本君だけど、家庭の味に感激していた場面を見ると、彼もまた殺しだけの日常を送る毎日の中で「メランコリック」に囚われていたのかもしれない。


お風呂は心を洗い流し、
自分の魂を鎮める事ができる場所だ

けれど、お湯にずっと浸かっている事はできない

いつか、風呂からあがり、
裸のまま向きあわなければいけない

「自分以外の魂」を鎮めた

その代償へ
Daisuke

Daisuke