青山祐介

ストリート・オブ・クロコダイルの青山祐介のレビュー・感想・評価

4.0
『大鰐通りは現代のために、また大都会の腐敗のために、私たちの街が開いた租界であった』ブルーノ・シュルツ「大鰐通り」

スティーヴン・クエイ/ティモシー・クエイ「ストリート・オブ・クロコダイル」
ストップモーション・アニメーション1986年

私たちの住むこの街にも大鰐通りのような租界地区があるだろうか?あったとしてもそれは街の通りではなく、脳のなかの特別の地区の「通り」の名であり、自分が勝手に思考と勘違いしている、脳細胞というアブラムシが巣くっている脳内の租界地区のことなのだろうか。それほど「ストリート・オブ・クロコダイル」は、異様でありながら、大鰐通りに行ったことがありますか?と、つい誰にでも問いかけたくなるような、私たちにとってはある意味で馴染の通りである。ユダヤ人シュルツにとっては現実に存在した通りともいえる。シュルツは1942年、「大鰐通り」の路上で射殺された。それとも死に際に見たシュルツ自身の幻想なのか。大鰐通りはユーゼフNの父が所有しているバロック風の遠近法で描かれた古地図に、不確かな、未踏地方として、空白のまま残されている地区なのである。そこが私たちの不可思議な脳のなかの租界の場所である。クエイの世界に登場するのは、人間シュルツではなく人形シュルツである。そこは当然、無機質の世界である。歯車、ネジ、時計、ワイヤー、糸、ゴムバンド、がアブラムシのように蠢く世界である。堆くたまった埃は、思考の残滓なのか、日常生活のゴミなのか、風化した希望の残骸なのか。
この通りにあえて寄り付く人はいない。もともと寄り付く方法を知らない(方法を研究した先人たちはいたが)。「卑しい誘惑の時間」や「失意の日々」の黄昏時には「なかば偶然に」その怪しげな地区に迷い込むことがある。色彩の欠如した地域、「黒白の写真」あるいは「埃で薄汚れた絵入りの説明書」のように、一切が灰色で「不毛で」「実りのない」心の通りなのである。通りの中心部には私たちの思考の残骸のように、傷物の商品を売る店がある。あるいは図書館か古本屋、蒐集家コレクションルームのようでもありが、どうやら思考を仕立てるテーラーのようでもある。それは幻想であり、見せかけであり、非在であるが、怪しげな見本、反物が陳列された、退廃の極致であり、無機質なアブラムシのように黒く、テカテカてと黒く脂と埃で底光りをしている店である。脳の中で出会う店員や通りにたむろする女たちは「例外なく娼婦」であって、それこそ壊れた操り人形のようにうつろな眼をして自動運動を永遠に繰り返す。クエイ兄弟は人形を自由自在に使い、脳の地図をあざやかに、おそろしげに、アブラムシの巣窟ように、現実的な映像として描き出した。私たちの見ている世界は。現実そのものではなく、脳地図の世界を現実として感じているだけなのだ。
「大鰐通り」の最後の秘密。何事も結果に達しないこと、空間に停止し、時は至らないこと、行き止まりであること。脳地図は深くに、無限に続くようであるが、実は「大鰐通り」と同じに、時が至らない、行き止まりなのである。死のみがそこから脱出する唯一の方法なのである。
青山祐介

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