Foufou

冬時間のパリのFoufouのレビュー・感想・評価

冬時間のパリ(2018年製作の映画)
2.7
ともかく登場人物が喋る喋る。カフェで、自宅で、職場で、ワインを傾けながら、昨今の書籍のデジタル化の是非をめぐって、万人が書き手となるネット時代の出版をめぐって、政治をめぐって、知り合いの近況をめぐって……実に澱みなく会話が、ディベートが、繰り広げられる。この人たちに余韻を楽しむとか沈黙に耳を澄ますとかいった嗜みは皆無のようである。フランス人、それはparoleの人種に他ならないと、アサイヤスは得意であるかのよう。

仕事の時間でありながら、昼休みにカフェでウィスキーを傾けながら談笑する。日本ならまずもって許されないでしょう。それにしても作中人物たちがAmazonの台頭による出版業界の未来を侃侃諤諤やるわけだが、無料化の波がどうのこうの言うなら、アサイヤス(監督)よ、ほかならぬ映画こそ、アマプラやらネフリやらの台頭で配給会社やら映画館の存在を無効にしようとしている、つまり貴方様の足元こそ危ういのではないかと危惧されるが、まぁ、誰も明日のことは知れないわけで。

ここでまたしてもケン・ローチを思っている。同じ欧州にありながら、こうも描こうとする対象が違うものなのか。そういえばフランスに、労働者階級にスポットをあてて物語を紡ぎつづける映画作家っているのかしら。登場人物の一人は、老舗の出版社を一代で復活させた辣腕で、いまも自らの信条を脇に置いてデジタル化を積極的に受け入れようとしており、アウディのクーペを颯爽と乗りこなす、ダンディな男である。その妻を演ずるビノシュは作中でも女優だし、仲間の一人は自身の体験しか書くことのできない、いわゆる私小説作家で、その伴侶は政治活動に没頭している。そして皆が皆、不倫の真っ最中。作家の妻はグレーゾーンにいるのだけれど。で、不倫相手の相手はさらにレズビアンだったりホモセクシュアルだったり…と、まあ、フランス映画ならさもありなんと観ているが、実際どんな顔して観ていたらいいのか、戸惑うこと頻りである。平均的な日本人であるとの自覚のある身からすると、ケン・ローチの描く貧困に喘いでいるわけでもなく、かといってアウディのクーペを乗り回すようなご身分でもなく、では自分の属する社会階級はヨーロッパ的にはなんなんだろうと考えて、かたや運送ドライバー、かたや介護士の共働きで、住まいは借家で車もなく、子どもはそれなりに出来がいいのに、わけもなく反抗的で問題ばかり起こす…って、もろに平均的な日本人のありようじゃないかと愕然とするわけです。そりゃ、不倫に対して手厳しいわけですよ、この国は。不倫って、やはり経済的な余裕あってのことであり、あの手の話題が世論の袋叩きにあうのも、要は嫉妬なのである。

もちろん、アサイヤスの映画を観ていて嫉妬心なんか掻き立てられはしませんけど。最後の海辺の松林での夫婦の語らいをどう見るか、ですね。救いのようだけど、「それにしてもぼくらこのところセックスしていなかったのにね」と妻の腹を撫ぜながら言う夫のセリフが余計で、妙な余韻を残して終わるわけです。やっぱりお前もかよ! となるわけですが、エンドロールにかかるジョナサン・リッチマンの「Here comes the Martian Martians」がなんとも全体を馬鹿にする感じで、映画の雰囲気と鋭く不協和音を奏でており、ますますもってどんな顔していいものやらわからないという次第。

ジョナサン・リッチマンとか The modern lovers とか、まったく知りませんでしたので、これは収穫です。
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