カラン

読まれなかった小説のカランのレビュー・感想・評価

読まれなかった小説(2018年製作の映画)
5.0
トルコのチャナッカレというトロイの木馬があったとされる遺跡の近郊で、エーゲ海に面した農村。

アカデミー外国語映画賞のトルコ代表になったが、アルフォンソ・キュアロンの『ROMA』やパヴェウ・パプリコフスキの『COLD WAR』の年でノミネートすらされなかった。完璧ではないが、かなりのものであるし、欠点を長所がゆうゆう上回る。


☆海辺の結晶イメージ

暁というのは、可視的世界の昼と不可視の夜の波うち際である。そういう《きわ》の出現する朝の時間帯は、青と白が複雑なレイヤーを形成しながら、陽光で溶けてピンクを帯びながら固体化に向かい、別れの現実が始まる時なのである。

汀というのは水が土地のへりに弾けて飛散する水と土地の《きわ》である。弾けた水の飛沫は、霧のように世界を漂い、冷気になって、いつか雪になる。

窓際というのは、屋内と屋外を区切りながら、世界へと繋がる光を私に投げかける、半透明の膜状の《きわ》なのである。人は窓際で少し自分でなくなり、少し世界になる。

その《きわ》というのは、あるものと別の何かが、接触して、一つになる領域である。

映画の冒頭は、明け方、カモメや船着場の音が精細に聴こえてくる海辺のレストランの窓辺で、チャイを飲んでいるのか、窓の外を見ている。このショットはまるでディゾルブのように、窓という表面で屋内の男と船を浮かべて揺らぐ青い海が一つになっている。店内から撮って反射しているのが男なのか、店外から撮って反映しているのは海なのかを判別するのは、カモメたちの細かい高音や船が傾いだ鈍く低い音である。

音が呼んだのか、男が店の外にでると、カメラは男の眼差しに呼応して、ダイナミックな入江のロングショットに切り替わる。船や段々に立つ家々の窓や屋根、朝の空、鳥たち。歩く男からのロングショットによって、冬を先触れする冷気に満ちた世界に、鑑賞者は浸透する。


☆秋の宇宙

本作は「野に咲く梨」というのが英題で、気づいていないだけかもしれないが、梨や梨の木がそうはっきりと映されることはない。紅葉が美しかったのは、かしわの葉っぱのように見えた。

林の道を歩いていると、森の開かれに黄金の光を浴びて立っている女の声で呼ばれる。幼馴染の美しい女だが、ヒジャブで気づかなかった。女は栗の実を拾っている途中で水を汲みに来たと。

女が煙草を欲しがり、人目につかない大きな紅葉した樹木の裏に男を誘う。女は煙草を吸い、ヒジャブを取ると、豊かな黒髪が周囲の木の葉とシンクロして風をはらみ、揺れる。女は金持ちと結婚するという。女が男にキスをする。森の木々と女の心だけが音を出してざわついているようだった。太い幹の周りを旋回するように徐々に世界に包囲されていく感覚。突然山の方から女を呼ぶ声。

葉ずれを作る風が女の髪を舞いあげて、金色の森の中でキスをして、世界に繋がると同時に、声で覚まされる。35mmで撮影したかのように透き通った秋の静けさを定着させたデジタル撮影は凄まじい採光であるが、皮膚の色素が抜けたようなクロースアップは、ビットマップを説明する拡大画のようであった。うーん。余計なことかな。そっちに目を引く必要は感じなかった。秋の光に溶かし込んで、かしわの古樹と融合させようとしたのかな。


☆降雪、落下イメージ

樹木から縄が垂れており、下に人体が横たわっている。近づくと蟻にまみれた父。屋外の樹木にハンモックのように吊られて、顔を蟻が顔を這う赤ん坊。父と、父の父と、自分。噴き出してきて、時間の単線を脱臼させるイメージを2時間30分ほど撒き続けて、映画に雪が降る。下に、下に、下に降り注ぎ、首吊りから、井戸の底へ。かつーん、かつーんと地の底を掘る。こうした落下イメージの重層化と増幅には恐れ入ったのだが、最後は映画のショットじゃなくて、概念提示になってしまったか。


レンタルDVDで観た。画質、音質は良し。

風と海と林と光。トルコの農村の山道を徘徊して、言葉になりにくいものを感じさせてくれる。人間心理ドラマ以外のものを映画から汲み取れない人はまったく面白くないでしょう。
カラン

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