海

ペンギン・ハイウェイの海のレビュー・感想・評価

ペンギン・ハイウェイ(2018年製作の映画)
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119分のうち911分くらいは泣いてたと思う。涙が止まらなかった理由について少し考えてみた。それはきっと「予感」のせいだった。永遠に生きてほしいひとにつきまとう死の予感、永遠に別れたくないひとからこそ感じるさよならの予感、永遠のなかに時間は流れたりしない、ひたすらな、悲しみだ。気づけないうちに勝手に涙だけがこぼれてくる。この日のわたしのたくさんの涙は、小さなころ夜中に目覚めて、いろんなことが怖くて泣いていた、あのときのわたしのたくさんの涙とおなじ場所からきているのだと思った。終盤はもう、アオヤマくんの後ろ頭を見るだけで涙が出たし、お姉さんの短めの前髪を見るだけでわたしの中にも「うれしさ」があふれてきた。そう、うれしかった。すごく幸福だったんだ。ここにはわたしが、走って走って辿り着いた景色を誰も覆そうとしない、愛すべき完璧な世界があった。お姉さんがぽんといきものを生み出すのとおなじくらい簡単に、わたしの中にもぽんと幸福が生まれた。ぽん、ぽん、ぽん、涙でもこぼさないと溺れてしまいそうなくらい心がみたされていった。母が子守唄をうたいながら体を優しくたたいてくれていたときのあのリズム、死ぬほど好きになった彼の顔の造形、生まれてはじめて心地いいと感じたキスのタイミング、猫がわたしにあたえてくれるいとおしい退屈、そういったわたしにとっての「遺伝子 うれしさ 完璧」のことが次々とうかんでは、きえていった。これは、子供が観るから楽しめる映画なんかじゃないし、大人が観るから理解できる映画なんかでもない。本当はペンギンがペンギンである必要だってない。夏も海も視覚が与える効果以外ではわたしたちに対した大きな意味は持たない。だから、軸が狂いこの映画を構成するほとんどが少しずつ意味を欠いていく。わたしたちが立たされているのがどんなにアンバランスな場所なのか、それに気がついたときにそのひとの中にペンギンハイウェイがひらけているのかどうか、もしも道が無かったのならそのときは、そのひとのなかにはお姉さんもアオヤマくんもいなかった、ただそれだけのことだと思う。わかるわからないじゃない。あの道が、あなたが答えをさがすときに通る道かどうか、おぼえのある、道なのかどうかだ。成長をやめないかぎり、わたしたちは、わたしたちのままで居られるということ。子供でも大人でもない。男でも女でもない。わたしというひとつの現象だ。だから不思議なの、あなたが他に存在しないたったひとつの生命だと思い出すだけで、固定されていたはずのわたしの存在は簡単にゆらぎだし、逆に、わたしがゆるがないたったひとつの生命であるとき、あなたのすがたかたちは簡単に波打ちはじめる。子供にも大人にもなる。男にも女にもなる。そうでないとつまらないよ。好意はひとを盲目にするのだと言われたって、それなら理解できなくても答えを見つけ出すから大丈夫だよ。正しいかどうかは重要じゃない。大切なのは、その答えが誰のものであるかということだ。
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