映画男

マリヤのお雪の映画男のレビュー・感想・評価

マリヤのお雪(1935年製作の映画)
2.0
映画自体どうしても退屈だったのであれこれ考えて拡大解釈しながら鑑賞。


官軍と薩摩が戦に明け暮れていた時分の話。映画は爆撃戦から始まり、二人の芸者とブルジョワジーの一行を乗せた駅馬車に続く。前半はまさに西部劇だが非常にチャチで迫力も魅力もない、至極退屈な展開が続き、この時点で眠気に襲われるし鑑賞を中断したくなるが、山田五十鈴のたおやかな美しさが、わずかに映画の世界に留まらせる。

馬車の中から、芸者に対するあからさまな階級差別といえるやりとりが続き、観る側は苛立つ。しかし途中馬車が故障して立ち往生しているところ、金はあるけど食い物がない、腹を空かしたブルジョワジーに芸者がタダで飯を与えてやる場面で観客は痛快さを味わい誇りを取り戻す。

官軍の隊長とお雪がなんやかんやで惚れる。女として扱われなかったもう一人の気の強い芸者は、一時は負傷した隊長を発見し、殺そうとするが、やはり彼女も隊長に惚れてしまっていたので逃してやる。「惚れた男のために尽くすのが女の道じゃないか」と反吐が出そうな台詞をお雪は言う。


一見すると本作は立場身分の違う男女の切ない恋物語だが、そうして見るとやはり映画的にも見応えは少なくて退屈するので、官軍の隊長=溝口。芸者二人=溝口の姉と置き換えてみる。溝口は実際に芸者の姉に育てられた男である。官軍の隊長は非常に女に対してウブな、じれったい男として描かれる。実際、溝口自身も女の話になると顔を赤らめるほどウブな男だったらしい。これでこの映画は溝口映画に関心があれば見るに耐え得る作品になる。

問題は、最後のクソ甘ったるい結末(芸者二人が惚れた故に負傷した隊長を逃してやる場面)をどう消化するべきかというところである。この展開をそのまま受け入れてしまうことは現代人にとって非常にダサすぎて受け入れ難い。惚れた男のためにリスクを背負う女の哀れなんて、見飽きたし、シンドイ。

別の解釈に導く為に、物語が終わるちょっと前の、芸者二人のやりとりを振り返ってみる。お雪は言う。「このままだとどうせ官軍は戦争に勝つ。身分の違う我々がこの先隊長に会うことは二度とないだろう。隊長は東京に戻れば錦を飾る男だ」
これはつまり、ここで官軍の隊長を始末したところで、官軍が勝利するのは目に見えているのだから、得しないしやめておこうという考えである。つまり計算した上で出した合理的結論といえる。よって、ラストシーンは、たしかに惚れたのは惚れたが、それよりもここで官軍の隊長を逃した方が、後々不幸にならないだろうという本能ではなく、理性によって導かれた然るべき結末と解釈できる。文句なしのスッキリした終わり方である。以上。
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