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アレッポ 最後の男たちの小のレビュー・感想・評価

アレッポ 最後の男たち(2017年製作の映画)
4.0
内戦で昼夜を問わず爆撃が続くシリアの街アレッポで、瓦礫に埋もれた人を助けようとする「民間防衛隊」=通称「ホワイト・ヘルメット」を追ったドキュメンタリー。いつ爆撃があってもおかしくない状況で、家族を危険にさらしてまで留まるのか否かの葛藤が核心だろう。

アレッポには逃げたくても逃げられない人がいるし、そういう人を助けようとする仲間もいる。難民に対し差別的な他国に逃げたところで待っているのは過酷な生活。それならば死と隣り合わせでも、ここにいるほうがマシかもしれない。

人間死んだらお終いである。後ろめたく、罪悪感はぬぐい切れないが、逃げたところで責める者は誰もいないだろう。家族の命を考えるのであれば、逃げるべきではないのか。

極限状態の二者択一。答えは一人一人違うだろう。しかし、その答えを出す方法について、最近読んだオーストリアの精神医師のフランクルがナチスの強制収容所の経験に基づいて執筆した『夜と霧』(霜山徳爾・訳)で知った気がする。

強制収容所で頑張り通すための意義、心の寄りどころを失い、やがて仆れていくしかない人がいる。<あらゆる励ましの言葉に反対し、あらゆる慰めを拒絶する彼等の典型的な口のきき方は、普通次のようであった。「私はもはや人生から期待すべき何ものも持っていないのだ。」これに対し人は如何に答えるべきであろうか。>

<ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。そのことをわれわれは学ばねばならず、また絶望している人間に教えなければならないのである。哲学的に誇張して言えば、ここではコペルニクス的転回が問題なのであると云えよう。すなわちわれわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われた者として体験されるのである。人生はわれわれに毎日毎時問いを提出し、われわれはその問いに、詮索や口先ではなくて、正しい行為によって応答しなければならないのである。人生というのは結局、人生の意味の問題に正しく答えること、人生が各人に課する使命を果たすこと、日々の務めを行うことに対する責任を担うことに他ならないのである。>

「ホワイト・ヘルメット」の男達はことをよく理解しているように思え、
彼らの決断とその結果について良し悪しは論じられないけれど、少なくとも「悪い」とは言えない気がしている。

そして、これほどの極限状態でないにしても、置かれている状況に何となく希望が持てず、将来への不安、焦りを抱くことがある自分も、フランクルの言葉を学ばなければならないと思う。
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