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『桜の国』に投稿された感想・評価

三四郎

三四郎の感想・評価

3.9
映画は…何をもって佳作だと言えようか。構図か筋か将又社会、人間描写か。それを考えさせられた。この作品は決して秀逸な作品とは言えない。ただ当時の世相、当局の思想に迎合し、ただただ忠実に製作されたことだけは確かである。北京、天津、地方ロケを行い、大掛かりなものであったと想像される。
105分作品だが、81分に短縮されており、大問題なのは結末部分が欠落しているので、後味が悪いのである。映画は「終」「完」の文字が出なければ、私はどうもその作品を完結することができない。

水戸と上原の恋愛成就の為に奔走する三枝子。北京に来て笠と会い、上原を捕まえに、居所を聞きに来たと言う。というのも、親友の水戸が上原のことを思って寂しそうにしているのを見ていると居ても立ってもいられなかったからだそうな。「三郎さんを東京へ連れてって新子さんの横へギュウギュウ押し付けてやりたいのッ」と嬉しそうに話す。ここで「男と女」「仕事と恋愛」などを二人で議論しあった末、笠は、「しかしまたぁ、君はなんだってそんなに矢島新子のことで夢中になるんだ?」「新子さんは親友じゃないの、わたくしの」「まるで、自分のことのようだよ」と笑い「そんなことないわよ」「おい、白状しろよ。ヒカルが三郎を愛してるんじゃないのか?」ここで黙る三枝子。女同士の固い友情には、いろいろな思いが錯綜しているのだ。北京から三郎を連れて帰れずに帰国した三枝子と三枝子の知らせと帰りを待ち望んでいた水戸。三枝子は水戸に気持ちを強く持てと激励するが、水戸は上原からは何の便りもなく、母親からは縁談の話を持って来られるといった情況で、沈み、かつ自棄になっている。彼女らは、お互いの尽力とその深切を想い合うからこそ、言い争うこともあった。
現存する映像での結末部分において、縁談相手に隠し子がいたとは言え、結局結婚し良い旦那さんを持った水戸は、遊びに来た三枝子に「うちの旦那様、あなたのこと褒めてたわ」「なんて?」「女同士ってなかなかああは仲良くできないと思ってたけど…お前とヒカルさんとは例外かなッ?なんて」と嬉しそうに幸せそうに言う。「そぅお」二人とも幸せそうに微笑み目で語り合っている。
この女同士の友情こそが、松竹大船調がこの小説作品映画化で描きたかった主題ではないだろうか。

原作小説『櫻の國』は『朝日新聞』の懸賞小説である。勿論日中全面戦争中の『朝日新聞』は戦争支持派であった。そうした時代の当選小説なので、戦時色の強い戦意高揚的小説であると言えよう。ただ、単純な戦争礼賛小説ではなく、さまざまな女性が登場し、また彼女らをめぐる男性達が複雑に絡み合い、だんだんと戦意高揚小説になっていくのである。
しかし、松竹が映画化すると違うものになる。最初に結論を言うと、原作小説と映画では全く異なる印象を受け、映画は戦意高揚的要素が皆無であることがわかる。そして、松竹大船調らしいメロドラマ、ホームドラマに書き換えられており、つまり、全体的に内容が衝撃的で激しいものではなく、優しいもの、登場人物は善人ばかりとなっているのだ。原作小説の内容を調べているうちに、この映画作品に対する考えが…だんだんと変わってきた。なかなかどうして良くできてるじゃないか!笑

さて、当時の北京、天津の息づかいを感じる。北京の新旧共存の繁栄。冒頭における北京の職場での笠の科白はそのまま大日本帝国の思想なり。支那のインテリに呼びかけるとして、「 我々日本は決して支那民族に対して我々の優越性をガムシャラに主張するんじゃない。支那民族の独立はあくまでも尊重する。と同時に日本民族の特殊性と独立とは犠牲にすることもできない、そこが主眼だ。双方の優秀な文化はなんなりかの手段で互いに採用しよう、そういう方法を考えよう」そこへ訪ねて来た宣撫官の上原。今日中にまた戦線へ出発なので当分のお別れに来たと言っている。笠「気をつけろよ、今度こそコロリとやられちゃうぞ」上原「いや危ないところだから行く必要があるのさ。泰平無事ならなにも我々臣民会が宣撫に行く必要はないさ」そのような話をしていて最後、笠「なにか言い残すことはないか、縁起でもないと言うかもしれんが」と笑みを浮かべ、上原「ないよぉ」笠「誰にもかぁ?」とニヤける。上原「あぁ、誰にもだ」笠「おい、本当に誰にもことづけないのか?」上原「ないよ、無念無想だ。今あるのは支那人全部を我々の友達にしようって考えだけだ」
三枝子の姉の旦那は、天津の小学校に勤め日本語教師をしている。三枝子が天津に着いた朝、姉とその旦那が駅まで迎えに来て、そのまま旦那を勤務先の小学校へ見送る。旦那が、校庭において日本語で指示を出し、朝礼のようなことをしているのを三枝子と姉が見つめているシーンがある。三枝子「どうしたの?急にしんみりしちゃって」姉「だって、ああやって何年も何年も、支那の子供達に日本語を教えているの…ちょっと英雄的なもんじゃないかと思ったの、武器のない戦士といった感じで」惚気る姉に三枝子は「ふふ、いくらでもおっしゃい」と笑うが、姉は「あのくらいの子供から、日本に親しませるのが本当じゃないかと思うわ」三枝子「そりゃそうね」支那人からすれば、本当にいらぬお節介だ。戦後、痛烈な社会風刺、皮肉な冷笑的映画作品を多く作った渋谷監督は、当時どんな気持ちでこの姉妹の会話シーンを撮っていたのだろう。戦時中はやはり判断を誤るのか、それとも国策重視で検閲でケチを付けられぬためか。しかし、私は以下の科白などは十分頷ける、無理のないものに思える。
「(略)毎日毎日の仕事が新しい歴史を作っている、それだけでも僕は向こうに生活していたいんです。これが希望でもあり、信念なんです。(中略)僕にとっては生きて行く情熱とでもいうものが、今の仕事(宣撫官)で一番強く感じられるんです。自惚れかもしれませんが、 中国人の一人でも余計に日本の誠実を知らしてやりたいんです。捨て石になっても良いから、力の限り尽くしたいんです」
軍に属する上原謙と、タイプの違う女性が出てきて、日本にいられないからとかで、結婚がどうのこうのとかで
未完フィルム。