マカ坊

オールド・ジョイのマカ坊のレビュー・感想・評価

オールド・ジョイ(2006年製作の映画)
4.5
先日鑑賞した「ファースト・カウ」の、そのあまりにも豊かな"小ささ"に、鑑賞直後はひとまず4.0というスコアで茶を濁したが、「手持ち無沙汰で掃除始めるあのシーン良かったな…」「落とされてた花をとりあえず台の上に戻すシーン良かったな…」「履き替えた靴が目立たないようにするシーン良かったな…」てな感じで、自分でも意外なほど細部の記憶が蘇ってきて、改めてこの作品の魅力をじんわりと感じている。

「小さな物語で紡ぐ確かなアメリカ」

「ファースト・カウ」や、今作「オールド・ジョイ」を観て感じたこの印象は、やはりケリー・ライカート監督のシグネチャーのひとつらしい。

カーステから、ある側面で確実にかの国の政治的分断を加速させたとも言えるトークラジオプログラムのひとつ「エア・アメリカ」が流れる中で、身重の妻を1人残し旧友カートと一泊だけのキャンプへ向かう"プレパパ"マーク。

車中の2人の会話から、彼らがかつて大いに楽しさを共有した仲である事と、それが大人になった今となっては最早過去の思い出になりつつあるという現在の状況が少しずつ明かされる。

カスケード山脈へと向かう道中の風景を流し見ながら、「時代の終わりだ」と少し寂しげにうそぶくカートもといボニー"プリンス"ビリーの言葉をきっかけに、USインディ界の良心、ヨ・ラ・テンゴの「Leaving Home」が穏やかに流れ始める。ここはアメリカ。

中盤、酒を飲みながら空き缶をエアガンで狙う、いかにも"男子"な余戯のさなか、マークは銃の持ち方について興味深い論を述べる。

「両手撃ちは真面目、片手撃ちは反逆者」

responsibleとrenegadeをどう訳すかでニュアンスが結構変わりそうだが、2人の人生観の差異と、今この瞬間の楽しみに求めるものの違いが、何気ないこのシークエンスにも見て取れる。それは勿論、"アメリカ的"保守と革新の対立をも示唆している。

何かを取り戻そうとする者と、それは取り戻せない者だと悟りながらも後ろ髪をひかれる者。次第に少なくなる彼らの声の代わりに鑑賞者の耳に届くのは、凝った2人の体と心を解すべく湧き出でる湯音と山鳥のさえずり。

50代くらいのインド人女性の夢から"天啓"を授かったカートの独り語りがどうしようもなくヒッピー的でナイーブなアメリカ観なのだとしても、敢えてそれこそを映画的にみせてしまうこのシークエンスは、その後訪れる刹那の親密さまで含めて今作のハイライト。

この2人の物語を、単純にホモセクシュアル性にのみフォーカスして消費するのは流石に不注意が過ぎるし、かといってこれをアメリカの"赤"と"青"の分断の寓意だとのみ捉えるのも、あまりに大雑把で無粋だ。

今作はそんな極小と極大をシームレスに繋げる窓のような作品だ。年々自宅での映画鑑賞における集中力を失い、気づけば90分程のホラー映画を再生している事が増えてきた私のような人間にも開かれた窓。

一度は断った物乞いに応じるカートは、おそらく残りわずかだったであろう彼の小銭を手放そうとも、他者との繋がりをそれでも信じようとするどこまでも無防備な希望だけは手放さない。

これを書いている2024年はアメリカ国内だけでなく様々な国や地域で一層の"分断の加速"が予想される年だが、こんな小さな映画を愛する一個人でしかない私も、それでもやはり、この繊細な映画的楽観性の美しさを信じる人間であり続けようとするだけだ。






あ、あと今作は犬映画としてもかなり良い。ケリー・ライカート自身の犬だというルーシーの可愛さと、彼女にやたら懐かれるウィル・オールダムの可愛さが拮抗している。
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