海

アスファルトの海のレビュー・感想・評価

アスファルト(2015年製作の映画)
-
たった一回きりの夜が、何年も何十年も、わたしを生かしてしまうことに、何と名付ければいいだろう。海から帰るときいつも、一緒に居る誰かに背を向けて走り出したくなる、波にふれるときいつも、「海だ」と言いたくなる。どうしてかな。美術館で買ったクリムトの母と子のマグネットを冷蔵庫に貼っていた、あなたはそれを見て、わたしに似ていると言った。わたしは自分の好きな女優を、この絵に重ねたことがあるのを思い出しながら、それは猫を抱くわたしなのか、それともあなたの中のわたしなのか、気になって夜も眠れなかったよ。わたしたちには天使がいる、恋とも夢とも愛だとも呼べない誰かのこと。身体の内側を満たしている詩と歌は全部あなたと、あなたと居るときのわたしの声で、録り直されていく。わたしの心の中だけにある、誰も踏み込んだことのないあの海に、そっと訪ねてくるような、この映画を観ているとき、わたしは自分の居る場所が、本当に一時的に海になっているような気がする。波の音みたいに聴こえる音は、世界中、どこにでもあるのだと思う。笑うときとおなじように涙がこぼれる。瞬き一つが惜しいよと、おもいながら何度も瞬きをするわたしたちを、神さまどうか笑っていて。たった一度髪を触れるだけでよかった、たった一度想いの伝わった気がするだけでよかった、たった一度あなたと約束を交わすだけでよかった、それだけでいくらでも生きようと思えた。ことばを失ってもわたしは、あなたに電話をかけるよ、5、6、8、3、愛しています、「風。そしてあなたがねむる数万の夜へ、わたしはシーツをかける」。


〝風。そしてあなたが眠る数万の夜へわたしはシーツをかける〟(笹井宏之『てんとろり』より)
海