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神様メールのnetfilmsのレビュー・感想・評価

神様メール(2015年製作の映画)
3.3
 外気に触れず遮断された部屋、閉めっきりにされた空間。まるで今年公開のレニー・エイブラハムソン監督の『room』のような閉鎖空間に母親と娘は閉じ込められている。暴力的な夫(ブノワ・ポールヴールド)は何かにつけて高圧的な態度で母親(ヨランド・モロー)を威圧する。思春期の少女エア(ピリ・グロワーヌ)はそんな父親が我慢ならない。レオナルド・ダヴィンチの『最後の晩餐』の絵、イエス・キリストが十字架に磔にされる前の最後の夕食をモチーフにした美術史に残る傑作だが、少女はどういうわけかこの絵に描かれた12使徒は18使徒であり、6人足りないと言い出すのである。会話のない食卓、父親の小言に苛立つヒロインは、ミルクの入ったコップを念力で少しずつ父親の方へ運ぶ。「兄貴のマネがしたいのか?」と吐き捨てるように言う父親、その殺伐とした視線の交差を遮ろうともしない親子の冷ややかな構図。食事を終えると父親は家族サービスするでもなく、自室に篭り何かをしている。全面引き出しに覆われた異様に広い部屋。タバコをくわえながらポツンと置かれたデスクの上のパソコンをいじる父親は実は全能の神であり、下界にただ一人の運命操作者として辣腕を振るっている。だが下界の神に崇高な精神などない。普遍的な不快の法則と称し、些細な嫌がらせは通し番号が2000番台に達している。高慢になる彼の態度はやがてエスカレートし、パソコンの画面上で不幸を目撃し、ほくそ笑む。

ベルギーの首都、ブリュッセルの無人の金融街に降り立った3頭のキリン、映画館に集まったニワトリの群れ、ベッドに伏せながらテレビを観るトラなど、幾つかのイメージが浮かぶもいずれも要領を得ない。やがて父親は自分そっくりの人間を作り、アダムと名付ける。やがて男はイブと出会い、恋に落ちる。こうして人類誕生の物語の幕が開くのだが、では父親は生まれた時から下界の神様だったのかなど幾つかの疑問も浮かぶ。白いソファーに座るアダムとイブの周りに白い下着を着けた子供達が並ぶある種異様な光景。母親にも悩みを相談出来ないエアは自室に戻ると、タンスの上に飾られたイエス・キリストのフィギュアに話しかける。かくして幼い少女の父親の支配からの逃走劇と、ちりじりになった残り6人の使徒を探す寓話的物語が駆動する。ジャコ・ヴァン・ドルマルの物語はいつだって奇想天外に我々をファンタジックに魅了する。『トト・ザ・ヒーロー』では70過ぎの老いぼれ老人が、出生当時、隣の赤ん坊と取り違えられたことで運命が変わったのだと嘆きつつ時間の流れを積極的に退行する。『八日目』ではワーカホリックで老齢期に入ったエリート・サラリーマンとダウン症の青年の静かな交流を描いていた。『ミスター・ノーバディ』では近未来の都市で、永遠の命を手に入れた地球人とは対照的に、限りある命を謳歌した男の回想録があった。今作におけるエアの突然の暴挙も、実にジャコ・ヴァン・ドルマルらしい「時間と死」を巡る不思議な物語であり、限りある時間を見つめた人間たちの生と死の哲学が映画の根幹にある。

6人の使徒を巡る6つの寓話的エピソードは、その1つ1つを紐解いていけば随分突飛に見えるが、その実、職業的・年齢的・性差的レイヤーを通して、我々観客はこの6人の誰か1人にでも感情移入し得る余地がある。6人の福音書がヒロインの成長を促し、少女はやがて少年に出会う。一見救いのない終末的物語に見えた使徒たちの有り様が複雑に絡まり、また新たなレイヤーが形成される。ジャコ・ヴァン・ドルマルの目線はいつだってどこか楽天的で温かい。中でもフランスを代表する女優であるカトリーヌ・ドヌーヴがサーカスで出会ったゴリラと一瞬で恋に落ちる様子には笑った。何不自由ないお金持ちの人生を謳歌しながら、ただ一つ足りなかった愛に走る女の真に迫る演技には、大島渚の『マックス、モン・アムール』のシャーロット・ランプリングを真っ先に思い出す。殺し屋と義手の女、『八日目』のダニエル・オートゥイユを彷彿とさせる冒険家、セックス依存症の小児性愛者、女になりたい病弱な少年など、この世に息苦しさを感じる人達それぞれに癒しが訪れる。冒険家を正しい場所へと導く鳥たちの群れ、余命の消えたモニター画面、初めてベッドに至るカップルのスロー・モーションの俯瞰ショット、ボーイ・ミーツ・ガールなフレンチキス、花柄に彩られた空などの幾つかの美しいイメージが一際印象に残る。しかしジャコ・ヴァン・ドルマルはデビューから25年で僅か4作とは、近年のヨーロッパの作家の中でも極めて寡作な作家に違いない。人生とは何かを考えさせられる不思議な余韻を持つ映画の誕生である。
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