優しいアロエ

イルマ・ヴェップの優しいアロエのレビュー・感想・評価

イルマ・ヴェップ(1996年製作の映画)
4.3
〈企画先行型がたどり着いた惨憺たる容貌〉

 ルイ・フイヤード『レ・ヴァンピール 吸血ギャング団』のリメイク作品の製作過程を描いたオリヴィエ・アサイヤス作品。女盗賊Irma Vep(Vampireのアナグラム)に抜擢されたマギー・チャンが、漆黒のキャットスーツに身を包む。
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 本作は出オチのB級アクション映画に見えて、実は『アメリカの夜』のように映画業界の内実を追った堅実な作品だ。冒頭から、小道具の拳銃をバトン代わりに、忙しない映画会社の裏側が切り出されていく。これは同じく映画業界の一コマをリレー形式に追っていったロバート・アルトマン『ザ・プレイヤー』のOPをよりミニマムに再現したものだろう。ハンドカメラによって人物を矢継ぎ早に映し替えていくのはアサイヤスの得意手法であり、『冷たい水』の廃墟パーティなどでも存分に発揮されている。

 さて、映画人たちの脳内には実にさまざまな理論が潜んでいる。ある者はハリウッドのブロックバスター化を嫌悪し、作家主義の必要性を主張する。ある者はジョン・ウーの作品を崇め、大衆迎合の必要性を主張する。ジャン・ピエール・レオ扮するスランプ映画監督ルネは、「『吸血ギャング団』のリメイクが上部だけのものになりつつある。これは概念にすぎない」と嘆く。

 レオの放ったこの言葉が、マギーを現実と映画の交錯した世界へと引きずりこむ。“核心に迫り、物体を持った”演技を獲得するため、マギーは劇中のスーツを纏って実際に盗みをはたらこうとするのだ。質実とした性格のマギーが業界の混沌に呑まれた瞬間である。マギー・チャンが同名の女優役であることも境界の融解に一役買っているだろう。また、ボディラインがそのまま浮かび上がるボンテージスーツは、決して親切とは云えない異環境に身を置き、ときに好色の目に晒されるマギーの内面を象徴したもののようにも思えてくる。

 その後、製作に満足がいかないルネは自主退場。また別のスランプ監督が(経済的な理由から)メガホンを握る。業界の依頼を起点とした“止まることが許されない”プロジェクトは、こうして個人の感性や思考を消失しながら進んでいき、日に日に正体不明の異作へと軌道を歪めていく。すべては止まらないために...。ルネの編集によって悍ましき姿へと変貌したフィルム。しかしこれは企画の終焉を意味しないのである。
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