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バービーの海のレビュー・感想・評価

バービー(2023年製作の映画)
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グレタ・ガーウィグが、この時代を生きる一人の女性/人間として、わたしたちに関わってくるその方法は、いつも魔法そのものではないですかとこの映画を見ていて思った。「ずっと好きで、ずっと味方だと思ってきたのに、こういう側面があることを知って純粋に好きだとは言えなくなった」ことの悲しみを、大手術で取り除かれている気分になる。麻酔はなくていい、ない方がいい。バービーも若草物語も、彼女が今のわたしたち(特に〝女性〟という存在)のために再定義してみせたやりかた自体が、わたしには、それが1からの新しい物語として始まるよりもずっと、わたしたちにとって力になってくれているようにおもえて、際限なくうれしい。映画も絵も文章も何でも、ただ作品というかたちを持ったあとのわたしたちの心は魔法で、祝福で、無敵で、大胆で、そして不可侵だということを思い出す。……そして実際のところ、わたしが普段見ている世界を基準にすれば、この映画でケンが男社会に目覚めたあとにやってたことなんて全部マシなことだったし、現実にいてもインターネットにいてもわたしたちの置かれている状況は、2017年に世界的に拡散されたはずの#MeToo以前の世界線であるように感じる。未だにそんな言葉聞けるんだ?未だにそこから説明しないといけないの?っていうようなことばかりある。ここ数年で、ローカル番組で聞いた言葉「いやらしい目で見られたくないのに何でミニスカート履くの?履かなきゃいいじゃん笑」(このパーソナリティは番組降板しました)。全国放送される番組で聞いた言葉「私は別にフェミニストとかじゃないですけど一人一人が自由に生きたらそれでいいんじゃないですか?」「女性の誰もがそんなふうに思ってると思われたくないよね」(こちらは番組ごと終了しました)。インターネットではもっと酷くて、園子温の性加害が明るみになったときに意味不明な擁護をしてた著名人たちの後継者みたいなのが当たり前にわらわらと居る。フェミニズムを否定し性犯罪を肯定するためなら何でもするような人間を、わざわざ探さずともそこらじゅうで観測することができる。そして『ゴッドファーザー』のくだり(わたしは『ゴッドファーザー』を観ようとしたことがあるんだけど1作目序盤で自分の権力を顕示するために馬を殺すところでこの映画本気で無理だなと感じてやめました)で思い出していたのは、どこからどう見たってフェミニズムを語っているはずの映画に対して「いや、これはフェミニズムではない。女性のためではないそれ以上の何かだ。これをフェミニズムと言ってしまうのは勿体無い」みたいなことを達観しているつもりで言っている人たちのことだ。何故そこまでフェミニズムに対して拒絶感を覚えたり息苦しさを感じる必要があるのか不思議で仕方ないし、そもそもだれかが今も属性のために苦しんでしまっているから問題があるのにそれをぼんやりとした別の何かに昇華させて無かったことみたいに扱う人たちに心底不信感を覚える。個々の話の以前に属性の話をするのは、そうしなくてはいけない理由があるからだし(その理由はもう誰もがわかってるはず)、それらについて何も語らず何もせずあくまで中立を貫くということは自由かもしれないけれど、目を逸らして生きていく理由にも決してならないはずだ。性問題について何も考えてない人ほどこの国の少子化のことを気にするし、自分の身体の権利を侵されたり自分より力の強い相手に脅されることの恐怖を想像できない人ほど性犯罪、暴力、虐待を軽視し「被害者ヅラして大袈裟な…」と嘲笑う。この映画は今語られているフェミニズムの一歩先を描いているからこういった話を今後はしていくべきだと思う人もいるだろうが、それは果たして、わたしたちが属している社会がその一歩前にさえ到達できていないことを理解した上での感覚なんだろうか。女性が男性が、シスがトランスが、邦人が外国人が、という話から解き放たれて自由になれるのは、わたしたちが心から信頼して愛しているだれかと共にいるときだけだとおもうし、その信頼や安心を固くしていくためにそれについて対話を重ねていくんでしょ。だれも無関係じゃない。一人一人の声が世界だよ。わたしは社会そのものが、できるだけそんなふうになってほしいといつもいつも思ってる。疲れたとき、戦う力さえないとき、あなたをどんな記号としてもあつかわないひとのもとで、あなたの声をきいてくれるひとたちのもとで、そのまま眠ったらいい。だからできるだけ多くの場所があなたにとって、わたしたちにとって、そうあるべきで、そうであってほしい。ただそれだけだ。だから戦ってるの。わたしたちは絶対にひとりじゃない。
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