カラン

ヒュルル…1985のカランのレビュー・感想・評価

ヒュルル…1985(1985年製作の映画)
4.0
橋口亮介監督が大阪芸大の映像学科を中退した頃の作品。監督23歳の1985年に制作、1986のピアフィルムフェスティバルで入賞した際に大島渚監督は、優れた映画監督が一生に一度しか撮れない作品だ、と選評を述べたとのこと。

冒頭。段ボールにノートを詰める「きつい仕事」のアルバイトの面接。

橋口亮介くん、大阪芸大映像学科4月に入学、、、中退。映画を撮る以外に何かしてましたか?ああ、ぶらぶらしてただけね。。。

「橋口くん」はやり場のない表情。がらんとした穏やかな白い光が「橋口くん」のバストショットを優しく満たしている。部屋は映らない。

ここは作家を目指したことのある人にはつらい気持ちがすぐ湧いてくるだろう。卑小な例えだが、若い頃に居酒屋のバイト面接の履歴書に文学研究と書かなければいいのに書いたがために、なぜか詩人のランボーについて店長さんに語ることになったことがあって、その帰りしなに茫然自失となった苦い経験が私にもあるので、橋口監督の痛みはよく分かる。(^^)

この後、大学の友人の映画撮影の手伝いとかで、大学の寮の女の子に出演してくれるように頼みに行った先で、その子には断られるのだが、別の子を紹介されて、、、

友人の映画撮影の手伝いから女の子と出逢い、初めてのときの不能に至る。ノイズだらけの画質で、音声の3割は聴き取れないレベル。リールを回すようなかたついた音は、わざとなのか、そういう機材なのか不明である。それともあれは風の音?音が潰れていて分からない。後半はずっとこの音がしている。しかし映画は映画内世界をまったく踏み外さない。

冒頭から「橋口亮介くん」と呼びかけてくるこの映画は明らかに自分を映している。『サンセット大通り』(1950)ですら踏み外した箇所があるのだが、『ヒュルル…1985』は踏み外さない。踏み外さなければ、つまり、自分の外に出なければ、自分を眼差したり、映画にしたりすることは不可能なはずなのだが、この映画で橋口亮介監督は踏み外さない。もしリールの音を媒介にして踏み外したことによって、この映画の撮影に成功したのだと言うのらば、それは素晴らしく楽しいアイデアである。

意図的なSEであっても、そうでなくても、どちらにしても、「橋口くん」はこの映画の映画内世界を踏み外さない。しかるに、この映画は一生に一度の映画で、23歳の橋口亮介が23 歳の橋口亮介を撮る、そこに差異や超越はない、ごく私的な撮影。そんな風に一生に一度だけしかやってこない23歳の寒空をものにしたのかもしれない。ヒュルルって。なお、この映画には空間という概念すらない。したがって映画的な空が映るということはない。
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