きまぐれ熊

バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)のきまぐれ熊のネタバレレビュー・内容・結末

4.0

このレビューはネタバレを含みます

MCUやダークナイト三部作が好きな人にぜひ見て欲しい。

それとファイトクラブ。見ててよかった。

MCU好きにおすすめといっても脳筋的にヒーローが勝つのが好きな人には勧め難い。ヒーローのアイデンティティや精神性を語るのが好きな人、つまりストーリーや内面を読み解くのが好きな人は楽しめるんじゃないかと思う。

といってもストーリーはヒーロー映画とは程遠い。
かつてバットマンを演じたマイケルキートンへの明らかな宛て書きである主人公リーガン。
エドワートノートンによって演じられるファイトクラブから抜け出してきたような男マイク。
そして薬物中毒経験のあるヒネたリーガンの娘サム。
リーガンとマイクが演劇という世界で殴り合う事を通して、またサムとの関係を通じて、リーガンが自身を見つめなおし、自己承認や愛の捉え方について少しだけ成長する。
そんなストーリーだと理解した。

大枠の構造はアメコミ映画が象徴する商業エンタメ主義と芸術の対立。
バードマンというアメコミ映画をモチーフにしつつも、内容は映画教養を強要する至って芸術的なストーリーって構造自体がテーマを表現してるのは非常に技巧的。
ただ十把一絡げでアメコミにテーマや芸術性がないって批判ならMCUちゃんと見てねーな?って思っちゃうし、流れ弾でアニメとポルノを見下すセリフが入ってるのを見ると、直接的ではないものの主張に視野の狭さを感じてしまう。
あくまでも登場人物の発言なんだけど、メタ的な読み解き方を要求してる時点で、製作者の貫通したメッセージと捉えてしまうのもまた正当だと思う。

長回しが凄いとか、バードマンがどうとか超能力がどうとかってのは割と瑣末事。気を取られすぎるとテーマを見失う。
また物語として特に重要なのはサムとの関係で、たぶんこの映画は父と娘の話だと言っていいと思う。
それを示すのが冒頭の「自分を愛された人間と呼ぶこと、  
 この地上で自らを愛された人間と感じること」という言葉

ラストシーンの意味不明さを解消する為に沢山のレビューを読んだんだけど、妄想と現実が混じっているというのが1番しっくりくる考察だった
それならここで一度長回し演出が途切れる事にも一貫性がある
もっとシンプルな答えも当然考えられるけど、それにしてはライラックの花や、ガーゼの下になお残るバードマン型の傷跡など、テーマをぼやけさせる比喩表現が多すぎる気がする

妻や娘の言葉を聞き、自分が愛されている実感を得て、バードマンという仮面を外し、自分の中に消化する事で、決別ができた。
じゃあなぜ最後に空を飛ぼうと思ったのかと言えば、娘に笑顔でいて欲しかったからじゃないだろうか
つまり最後に登場したサムだけが妄想上の、こうあってほしいと願ったサムだったことになる。

妄想中に他人が干渉する例は劇中いくつかあったが、その都度、現実ではどういう状態だったか推測できるように示唆はされていた。
その理屈からも判別が難しい最後のサムだけが妄想上の人物であると言えてしまう。それは何故か。
それまで妄想内に誰も登場していなかったのは、おそらく「妄想が自分の為のものでしかなかった」からじゃないかと思う
バードマンはむしゃくしゃした気分や自分の万能感を満足させる為の自慰でしかなかった訳だ
だから他人が必要ない、自分だけの世界だった

劇中サムについてのリーガンの言及を振り返ると、ハナから自分を愛していないと決めつけるような発言が多かった
それが最後の病室で家族の思いを実感し、娘に愛されたいと初めて思えたからこそ、笑顔にさせるような妄想を無意識にしたんじゃないだろうか

ただ愛されたことが分かって人生に満足したってだけの結末なら、きっとこんなに評価されてはいないだろう
最後に窓を見上げるサムを出す必要性もない
娘との関係に前向きになれたことがこの映画の結末だと思いたい

リーガンが生き残ったのか死にかけているのかは本編のみでは判断に困るし、そこはハッキリと決められていないのではないかと思ってる
きまぐれ熊

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