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ドレミファ娘の血は騒ぐのnetfilmsのレビュー・感想・評価

ドレミファ娘の血は騒ぐ(1985年製作の映画)
3.9
 秋子(洞口依子)は高校時代の上級生吉岡(加藤賢崇)を慕って、田舎から都内の某大学にやって来た。華やかなキャンパスは、彼女の目に夢のようにも、またハレンチにも映る。そこで発見した吉岡は、すでに以前の彼とは似ても似つかぬ軽佻浮薄な出鱈目人間になっていた。抱き続けた夢が破れた秋子は田舎に帰る決心をするが、それをひきとめたのは心理学ゼミの教授・平山(伊丹十三)だった。「恥じらい」の心理を独自な理論で研究している初老の平山は、秋子を格好の研究対象として自説の完成を計る。それは同時に、彼女に対する淡い恋情を禁じ得ない。一方秋子も、平山の紳士的な態度に悪い印象は持たなかった。冒頭、カセット・レコーダーを持つ手の挑発的なアップで映画は始まる。カメラは主人公である洞口依子と併走するかのように大学内を転々とする。地図を持ちながら右も左もわからない校内を歩く彼女にカメラは寄り添いながら、活劇の行方を見守る。大学の中と外はまるで世界の中と外のように厳格に区分けされ、外側の世界はクライマックスまで姿を現すことはない。主人公である洞口依子は屋上に寝泊まりし、自分の暮らす田舎では見られなかった人たちと接点を持つ。

『神田川淫乱戦争』に続き、ここでもまた吉岡役の加藤賢崇が突然歌い出す。おそらく企画書の段階では、ジャンル映画としてのミュージカルと書き込まれていたため、日活上層部もそのような映画を期待したはずだが、躁状態の加藤賢崇が淡谷のり子の『ルンバ・タンバ』を軽快に歌い踊る場面があることはあるが、ミュージカルと言えるような場面はここしかない。学内の階段のロケーションやバイオリンの演奏は否応無しにJLG『カルメンという名の女』を想起させる。あの映画でも美しいクラシックの音色の中にふいに挿入される活劇の場面が、ショットのリズムにメリハリをつけていたが、今作も同様に幾重にも積み重なるショット群と有り得ないような平行描写が物語を断絶させていく。観客は役者の演技とその独特のショットのリズムと戯れる。

 今作を最も特徴づけているのは、35mmフィルムで撮られたショットの中にふいに挿入されたビデオ映像だろう。もともとの『女子大生 恥ずかしゼミナール』という映画の断片は、35mmフィルムの映像を編集し直して使用されている。総計20分にも及ぶ幾つかのビデオ映像は、『女子大生 恥ずかしゼミナール』がボツになった後、あらためて撮り直されたマテリアルである。このVHSの独特の質感と、奥行きのない平面的なショットが、35mmフィルムで撮られた映像の中に巧妙に挿入されることで、物語は独特の狂騒を帯び始める。良い意味でどこまでも幼稚でどこまでも無邪気なショットの数々は、決して滑らかにつながることはない。
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