砂上の楼閣ならぬ砂上の女体の持つニュアンスが、冒頭とラストで絶妙に変化する。
こういうところも上手いよなーほんま…
それにしても分かりにくい作品なので、物語的な娯楽性も映画的快楽もどっちも欲しい私のような人間には正直少しとっつきにくい映画でもあった。
しかし流石に「映画」が上手すぎるよなー。
船上の「プロセシング」シーンでの肩越しショットでフレディがじわじわと内側を晒していくのに合わせて、ホアキンの画面占有率が着実に(シーモアホフマンの背中によって)圧縮されていく流れとかも巧み。
序盤の逃走シーンと例のバイクシーンの一部以外は(ここもか?)空間の奥行きを利用したいわゆる「縦の構図」が多い気がするのは気のせい?
お話に関しては得てして親子というか擬似家族モチーフが多い作家ということもあり、今作もそういう視点で見始めたけど当然それだけでは無く…
ここでマスターとは単に"父親(的存在)"を指すものだと考えたが、エイミー・アダムスの存在がこの直線的な愚考を阻む。あの手淫シーンは何なんだ?彼女の存在が意外と大きいのも興味深い。そういやポスターも3人のロールシャッハだった。
サイエントロジーとPTAをめぐるバックストーリーはなんか奇妙というか数奇なもんを感じて複雑な気分。
こないだストレンジャーシングスを観ていてvesselという単語には、船だけでなく「器」という意味もあるという事を知った。
船上で出会い、Slow Boat to Chinaという曲で別れた男達の魂を載せたvesselが一期の大海を揺蕩う様をみて思うのは何も今作のキャラクターとしての彼らの事だけでは無く、どうしてもフィリップ・シーモア・ホフマンとホアキン・フェニックスという、常にその身にある種の「器」としての悲哀を取り込んだ(取り込まざるを得なかった)2人のアクターの生き様についてだ。
決して好ましい見方では無い事は重々承知の上で尚、そういった側面からもフィリップの息子クーパー・ホフマン主演の「リコリス・ピザ」が楽しみで仕方がない。