少年というアイコン(象徴)映画
物語は・・・という出だしでこの映画は語れない。
異国の海辺、といっても朽ち果てた漁船、漂流し浜に打ち上げられたゴミの山が雑然とした海辺。
沖合には大型タンカーが停留している。
時折、投げ捨てられた大量のビンが、潮の関係か波打ち際に押し寄せてくる。
少年たちは、そのビンを互いに奪い合いながら、もってきた木箱に投げ込む。
市場で売るためだ。
波頭の眩しさのなか、ひたすら駆けていく少年。
どこから来てどこへ行くのかわからないプロペラ飛行機の離着陸に興奮し、大声をあげる少年。
本作には、「少年」と「大人」という対比はあっても、そこに「親」は出てこない。
普通「少年」がいれば、「親」が登場するのが相場だがこの作品には出てこない。
主人公が孤児という設定ではあるのだろうが、理由はそれだけではないだろう。
「親」が出ると、家族が匂い立つ。
家族が出てくると、「少年」は「子供」という属性をまとうことになる。
それだと、「少年」というアイコンが消えてしまう。
「少年」は親や社会から守られていないことで、象徴としての「少年」たりうるのだ。
孤児を通して、社会システムへの問題提起という影もなく、さりとて、親のいる友人に対する甘い憧れも描いていない。
ただ、ひたすら駆ける少年を描く映画。
少年というアイコン(象徴)がまとうオーラの物語は、大人、とりわけ酸いも甘いも噛み分けた大人たち、特にすねに傷持つ大人のアキレス腱を刺激する。
国がどこであれ、時代がいつであれ、自身の少年時代をシンクロさせることで、甘い思い出に憧憬を抱かせる。
シークエンスは荒削り。
あえてそういう作風にしたのか、映画研究会が学園祭で撮った8mmビデオの雰囲気がある。
興行としての映画か、芸術としての映画か。
かつてのフランス映画が陥った、二項対立。
両者のバランスを取ることに苦労するわけだが、後者に振り切るのは、ある意味楽かもしれない。
そう思った。