YasujiOshiba

天空のからだのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

天空のからだ(2011年製作の映画)
-
MUBI。23-39。アリーチェ・ロルヴァケルのデビュー作。その姓はドイツ人の父方から来ているから、ドイツ風に読めばロールヴァッハーなのだろう。けれどイタリア人はそんな発音をしないから、ロルワケルなどと言うのだが、本人はそれでもいいと言う。そもそも自分の姓は自分でも正しい発音がわからない。でもその名前のおかげで、どこに行っても半分は外国人のような気がするという。

「半分は外国人」というのがデビュー作のテーマでもある。13歳のマルタは10年ちかくスイスで暮らし、故郷のレッジョ・カラーブリアに帰ってくる。母親リータ(アニータ・カプリオリ)はイタリア人だから言葉はわかる。同年代の子どもたちと話は通じるのだけど、どうもしっくりこない。さらにしっくりこないのが堅信式のためのカテキズム。

洗礼を受けた信者が物心がついたとき信仰を固めるのが堅信(Affermazione あるいは Cresima)なのだけど、この式を受けるためにはその前に事前講習が必要となる。それがカテキズムだ。カメラはそんな講習会に参加するマルタを追うのだが、その映像がよい。寄りそうでもなく突き放すでもない。ただ見つめる。見つめるカメラに身体が感じられる。いいカメラだ。

それにしても堅信式は初めて見たかもしれない。映画では洗礼式や聖体拝領式はよくみかける。けれども堅信式は、物心がついた子どもたちが相手。だから学園もののようでもあるけれど、決定的に違うのは、そこにキリストがいるということ。堅信とは、キリストを信じると表明すること。だから表明した者の額に聖香油で十字を刻む。それは生涯キリスト者として生きる証、消すことができないスティグマだ。

しかし、ロルバルケルのカメラが捉える堅信のカテキズムは、どうにも偽善的で俗悪で、俗悪なのだけれど逃げることができない閉鎖空間となる。そこに投げ込まれたマルタは13歳。女の子が大人になる年頃。それはちょうどキリストの母となるマリアが婚約する年頃でもある。マルタとマリアはそこで響き合う。響き合うからこそ、その場所の俗悪さと偽善が生理的に痛い。

はたしてこの映画、どこにゆくのだろうと思ったところで、突然、ロードムービーとなる。レッジョ・カラーブリアから海岸道路を南に降り、魚の旨いレストランで『ドッグマン』のマルチェッロ・フォンテのウェイターの姿に、ああやっぱりいい役者だなと納得しながら、出世主義者の神父とマルタは、海岸線からアスプロモンテ山のほうに入ってゆく。行き着いたのがログーディ・ヴェッキオ。

この廃墟となった集落がよい。谷を見下ろす斜面に出来たログーディ・ヴェッキオ(Roghudi Vecchio)という街では、かつてこの地に住んでいたギリシャ語に由来する方言グリーコがしゃべられていたという。そんな場所にある教会にマルタは連れて来られる。カテキズムから逃げ出し、偶然通りかかった神父の車に拾われて、キリストの像を取りに来るのだが、無人と思われた集落の教会には、世捨て人のようなロレンツォ神父(レナート・カルペンティエーリ)が住んでいた。

マルタはその神父に、カテキズムで意味を教えてもらえなかったヘブライ語をたずねる。それは「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」。どこかで聞いたことがあると思ったら、青山真治の映画(2005)のタイトルではないか。そっちも見たくなってきたけれど、話を戻して、ロレンツォ神父とマルタのやりとりを、以下に引いておく。

- Tu fai il prete?
(神父さんなの)
- Sì. (ああ)
- E studi come preti?
(神父さんみたいに勉強してる?)
- Sì.(ああ)
- Cosa vuol dire : «Eli, Eli, lema sabachthani»?
(「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」ってどういう意味?)
- È un grido. È Gesù che urla. “Oh dio, perché mi hai abbandonato?”.
(叫びだよ。叫んでいるはイエスだ。「神よ、なぜ私を見捨てたのですか?」と言っている)
- Perché urla?
(どうして叫んでるの?)
- Perché è arrabbiato. Tu come te lo immagini?
(怒っているからだ。きみは、どんな人だと思ってるんだ?)
- Buono. (良い人よ)
- Sorridente? (笑顔の?)
- Sì. (そう)
- Con gli occhi azzurri, che ti vuole abbracciare?
(青い目で、きみを抱きしめたがっている?)
- Sì. (そう)
- Invece è arrabbiato, furioso. È solo. Corre da un posto all’altro. E dovunque gli chiedono guarigioni e miracoli, lui va. Corre da tutti con intorno un gruppo di discepoli ignoranti che non capiscono niente. E gli chiedono sempre spiegazioni, chiarimenti. Non hanno un briciolo di immaginazione. E si scandalizzano…. Leggi.
(ところが怒っているのだ、激怒している。ひとりぼっちでな。ひとつの場所から別の場所へと走り回っている。病気を直して欲しいとか、奇跡を起こしてほしいと請われるところはどこにでも行く。誰のもとにも駆けつける。いっしょに連れてゆく弟子たちは、無知でなにもわかっておらん。いつだって説明をもとめ、解釈をたのんでくる。想像力のかけらもない。それなのにすぐに騒ぎ立てるのだ… ここを読んでごらん)
- (Marta legge) E i suoi avendo saputo tutte le cose, andarono a pigliarlo, perché dicevano: «Egli è fuori di sé». [Marco 21:I]
(〔マルタは手渡された小さな聖書の示された場所を読む〕身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取押えに出てきた。気が狂ったと思ったからである)

それは『マルコによる福音書3:21』。マルタはその「気が狂った」イエスの像にふれる。ふれるその指。ふれられるキリストの像。もはや怒りに叫ぶでもなく、神に見捨てられて、十字架にかけられ、あの「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」を口にしている、その口にふれる。

このときからマルタはキリストの存在を受け入れはじめる。キリストの像を乗せて山道をゆくあの美しいショット。キリストは「気が狂ってる」という言葉に動揺する出世主義者の神父、海辺の道でハンドルを切り間違え、キリストの肉体が海に浮かぶ。

空の青のような海に浮かぶキリストの肉体、それはタイトルのとおりの「Corpo celeste 」(空色の肉体)だ。そして、ぼくらはそこにマルタの堅信(affermazione)の始まりを見る。

そしてキリストの奇跡は、海岸の少年たち(漁民のシンボル?)から手渡されるものに反復される。生きた魚は、人々から嫌われる、あの気の狂ったキリストのシンボルにほかならない。
YasujiOshiba

YasujiOshiba