レインウォッチャー

蛇の卵のレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

蛇の卵(1977年製作の映画)
3.5
ヒトラー台頭前夜のベルリンを舞台に、異邦人の目を通して徐々に積もっていく社会不安を見つめたような作品。

劇中当時のドイツはWWI敗戦の影響で困窮、スーパーインフレが起こっていたような状況。当然、街の様相は暗く、アメリカ国籍のサーカス団員である主人公アベル(D・キャラダイン)も失業中である。彼は酒に溺れ、そのうえ冒頭で芸のパートナーでもあった兄が自殺してしまう。

映画は終始鬱々とし、行き場のないアベルが不安の霧に包まれたようなベルリン(※1)をよろよろと彷徨う姿を追っていく。一時は兄嫁のマヌエラ(L・ウルマン※2)と身を寄せ合うかと見えても、関係を保つことが出来ない。
アベルやマヌエラは、たびたび何かに「囚われて」いるように見える。窓枠や階段の柵といったラインの中に、彼らは押し込められて映される。やがてアベルは本当に収監されてしまったりもするわけだけれど、彼らを始めとするベルリンの人々が抱える殺伐とした閉塞感が伝わる表現と言えるだろう。

そんな中で徐々にアベルやマヌエラの狂気が育っていて…という流れはもはや「ベルイマンあるある」だけれど、今作は少し違った展開を見せる。

多くのベルイマン映画では、登場人物が抱える強迫的な懊悩が深まり、やがて夢(幻想)と現実が入り混じる様が描かれる。今作もまたそうなりそうなところで、《現実》の方がその幻を越えてくるのだ。
これは、その後の歴史を知るわたしたちであれば十分理解できると思う。ドイツは、そして世界はまさに「嘘みたいな」方向へと進んで行ってしまうのだから。

劇中では、厳しい情勢の中で、ユダヤ系に対するヘイトが募っていく様が描かれている。それは経済的・文化的に成功していたユダヤ系に対する妬みや劣等感を含んだルサンチマン的感情といえて、ヒトラー/ナチスは生まれるべくして生まれた、とも思わされる。

彼らを生んだのは果たして誰なのか?ドイツ国民か、ユダヤの人々か、莫大な賠償金を吹っ掛けた連合国側か?
遡って責任を問おうと思えば幾らでも可能であるし、歴史とはそんな繰り返しであることを思い出させるけれど、確かなのは悲劇がわかっていたのに「誰もそれを止められなかった」ことである。終盤、タイトル=『蛇の卵』の意味が終盤で明かされたとき、このことは重さをもって腑に落ちる。

無気力に沈むアベルと彼の周りで起こる不幸は、このことの縮小版なのだろう。アベルには『蛇の卵』が見えていながら、自分のことで精一杯で、卵を殺すことも捨てることも間に合わなかった。やがて、何もできず受動的なまま再び群衆の中に消えていく彼は、多くの小さく狭い暮らしに留まるわたしたちの姿と同じだ。

キャバレーで上演される倒錯的な趣味の喜劇、凍てつく夜道で馬を捌いて売る女…異様な光景が潜む退廃的なベルリンは狂って見えるけれど、アベルが「空気には棘があり、誰もが知らぬ間に毒気を吸い込んでいた」と評したこのムードは、決して誰もが覚えのないものではないはずだ。

毒は相乗効果で濃くなり、渦を巻き、蛇の養分となる。
震災後で、コロナ禍で、荒れたネットやメディアで、あるいはもしかすると家庭の中で、わたしたちは、何度もこのベルリンを目にして…そして『蛇の卵』の息遣いを聴いたのではなかっただろうか?

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※1:大規模な街のセットが語り草である今作、ベルイマン映画では初のアメリカ資本で、言語も英語が使われている。

※2:ベルイマン映画の看板的存在の彼女、今作ではキャバレーの舞台に立って素っ頓狂なメイクで歌ったりとか、珍しいお姿が拝める。