似太郎

仮面の報酬の似太郎のレビュー・感想・評価

仮面の報酬(1949年製作の映画)
4.8
【久々の長文レビュー😁】

🎞ロバート・ミッチャム&ジェーン・グリア主演という『過去を逃れて』とほぼ同じキャスティングの作品。監督は駆け出し時代のドン・シーゲル。RKO配給。1949年作品。

当時のお堅い映画評論家からしたら「低俗で野蛮な映画」とか「こんなチンケなB級映画ばかり作ってたらハリウッドも廃れる」とか、本作の評価は現在に至るまで異様に低い。

唯一この映画の先鋭性を見抜いていたのは、芸術先進国のフランスくらい。当時からフランスのカイエ・デュ・シネマと交流を持っていた映画評論家、山田宏一氏によると(以下、キネマ旬報社別冊『世界の映画作家18・犯罪/暗黒映画の名手たち』より抜粋)

「ハリウッドのアクション映画におけるヒーローの起爆剤の典型的な要素のひとつに『時間』というテーマがある。ごく限られた短時間のうちに、全てを完了させねばならぬという、のっぴきならない状況下におちいっていた男が、それこそ命がけでぶつかっていく超人的なアクション(中略)」

「どんどん『時間』が失われていくのに、主人公のまえには、どんどん障害があらわれてくる。もちろん、障害が大きければ大きいほど、エネルギーの噴出量も大きくなる。こういう一種の弁証法的力学に支えられた緊張感とリアリズムこそ、多くのハリウッドのB級アクション映画の魅力であり、そのひとつの偉大な典型例が、ドン・シーゲルの映画なのである」

本作の主人公(ロバート・ミッチャム)は何日、何時間という【時間】を掛けてそのような障害とたたかっているのではない。まず、ドン・シーゲルの映画に観客が期待するものは何よりも「アクション」である。

…とは言っても、大量に破壊する物量の多さ、カーチェイス、スタントのはげしさのことではない。山田宏一氏が主張するように、のっぴきならない状況に追い込まれた人間が起こす/起こさずにはいられない【行動】のことを示すのである。

前方に逃げるパトリック・ノウルズを追いかけ、後方から追ってくる大尉役のウィリアム・ベンディックスから逃げるという、まさしく【のっぴきならない状況】に置かれた主人公のミッチャムは、相対的な時間とつねにたたかっており、逃げゆき、迫りくる時間の中で必死に抗っている。
これが一つの「B級アクション映画」の最大規定となっており、観客をハラハラ・ドキドキさせる映画的躍動感を生み出す要素=即ち【行動】のことなのである。

個人的には本作品に於いて、誰がどう見ても「不遜な悪役」にしか映らない主人公のミッチャムとグリアの二人組なのだが、彼らの放つ一種の【ふてぶてしさ】や【アメリカ人的な悪辣さ】といったオーラが『公金横領の嫌疑をはらすために真犯人を追ってメキシコへやってきた』主人公(ミッチャム)と行動を共にする女(ジェーン・グリア)という奇異な設定上のもとに展開される荒唐無稽な追跡劇———典型的なB級映画のフォーマットが、私にはどうしてもゴダールの『ウィークエンド』(67)の手法とダブって見えてしまう。

大勢のメキシコ人側からすれば傍迷惑な二人組(アメリカ)を自動車に乗せ、超現実的世界の中へ放り投げるという着想自体が、のちのゴダールやジガ・ヴェルトフ集団のやり方にも何らかの影響を与えているように思えて仕方なく、本作のフォーマットを敢えて換骨奪胎させながら強大国批判や政治的アジテーションを行なっているのだな、と個人的に推察した。

もしゴダールが仮に本作にインスパイアされて『ウィークエンド』を撮っていたとしたら、それこそ戯作精神の塊であり高度なアメリカ文化批評、或いは構造分析だと思う。山田宏一氏にしろゴダールにしろ、フランスの映画批評家が何かしらアメリカの通俗的なB級映画が前衛のルーツであることを見抜いていたとしたら、それは凄いことである。当時、本作の「前衛性」に気付いたアメリカの映画批評家なんていたのか?

と、いう訳で長文となったけど、ドン・シーゲルの初期代表作の一つでロバート・ミッチャムやジェーン・グリアにとっても気合の入った演技が見られるB級アクションの傑作。上映時間はたった71分なのに恐ろしい程の満足度。フィルムノワール全盛時に製作された奇跡の一本。🎞
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