ジミーT

原始獣レプティリカスのジミーTのレビュー・感想・評価

原始獣レプティリカス(1961年製作の映画)
5.0
怪獣映画を観たという充足感を味わったことを覚えています。

怪獣映画は日本が生んだ偉大な文化であると思いますが、そのパターンはだいたい、

・ミステリアスな発端
・実在しない巨大生物の登場
・それが大都市に暴れこむ
・人間との攻防戦
・最期

となります。しかしこのフォーマットに則っていながら(というか、このフォーマットを創った)、映画史上の大傑作「キング・コング」(33年)は「怪獣映画」という感じがしません。「原子怪獣現わる」(53年)も然りです。

何故にそうなのかというとキング・コングや原子怪獣には生物感がある。「怪獣映画」というより「巨大生物SF」と言ったほうがしっくりくる。
私は「怪獣」たるべき条件は「生物感のなさ」だと思うんですが、ではその「生物感のなさ」は何から生まれるのか。それは「ゴジラ」(54年)を始祖とする着ぐるみ方式から生まれてくると思っています。

「キング・コング」や「原子怪獣現わる」はいわゆる人形アニメーションで撮影されている。つまり1コマ1コマ人形を動かして撮影されており、結果として(例えカクカクした動きであっても)「もとから自力で動いているモノをフィルムで撮った」のと同じ結果になるわけで、生物感が生まれるのは自然なことなんです。
しかし着ぐるみ怪獣は、人間が着ぐるみという無生物を動かしている。フィルムが捉えるのは人間の動きです。だから着ぐるみという「怪獣」に生物感がないのは当然なんです。モスラのような操演怪獣然りです。

私が勝手に師事する評論家の故・石上三登志先生は「ゴジラ」(54年)を映画として全否定しており、その根拠のひとつに「ぬいぐるみ方式による生物感のなさ」を挙げています。「日本SF映画の中に生きた怪獣を登場させようとするならば、当面なにはさておいても、ぬいぐるみ方式はやめるべきである。」とまで言っています。
しかし事は石上先生の考察とは逆に進んだ。この「生物感のない怪獣」の大量生産が日本映画に「怪獣映画」という新たな文化を築き上げたんです。

だから生物感にこだわった(と思われる)ローランド・エメリッヒ監督版「GODZILLA ゴジラ」(98年)に日本のファンが拒絶反応を示したのは当然の結果だったのでしょう。「巨大生物」であって「怪獣」じゃなかったから。
「GODZILLA ゴジラ」(14年)では、ギャレス・エドワーズ監督はわざわざ着ぐるみ怪獣を意識してCGゴジラを作ったと言っています(注)。
「シン・ゴジラ」で野村萬斎さんにゴジラを演じさせたのは、生物感のない着ぐるみ怪獣を意識したのかもしれません。
怪獣映画の灯は消えず!喜ばしいことです。

やっとここまできました。長くなってすみません。

この映画「原始獣レプティリカス」なのですが、冒頭に挙げた怪獣映画のフォーマットに則った展開を守ってします。そして操演と思われる、「生物感のない」怪獣が決め手となり、怪獣映画を観たという充足感を味わわせてくれました。その充足感にスコア5.0。


出典忘却。忘却とは忘れ去ることなり。

追伸1
レプティリカスというもっともらしい名前の命名根拠は何だったんだ?

追伸2
エメリッヒ監督版「GODZILLA ゴジラ」は、あれはあれで好きでした。

追伸3
ジョン・ギラーミン監督版「キングコング」(76年)は怪獣映画だったように思えます。

参考資料

「吸血鬼だらけの宇宙船」
石上三登志・著
1977年 奇想天外社
より
「ゴジラ<未熟怪獣の白昼夢>」
1968年「映画評論」
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