とねま

激怒のとねまのレビュー・感想・評価

激怒(1936年製作の映画)
4.0
まず、主役の二人、ジョーとキャサリンの演技がすごい。
二人とも幸せの絶頂からドン底に落とされてそれぞれの現実に対峙していく振れ幅を演じ切っていたと思う。

この映画では「激怒fury」が大きく三つの方向から描かれている。
第一に、少女誘拐事件の犯人に対する民衆の激怒。これは好奇心から始まった側面が大きくもあるが、いわば市民の義務としての怒りでもある。自分の属している地域、国家の秩序を乱すもの、悪とされていることをなす者への怒りを表明しない者は非難の対象とさえなる。またこの怒りは、(犯人ではなく)容疑者をはやく確実に罰しようとする感情に繋がっていく。
第二に、冤罪から勾留され、リンチに遭って焼殺されかけたジョーの激怒。彼はリンチに関与した市民を死刑にすることによってこの怒りを晴らそうとしている。この感情は見かけほど普通のものではないと思う。死刑というのは第一には被害者の復讐を果たす機能は持っておらず、国家による危険人物の排除や見せしめであり、「被害者感情」への弁済の要素は後から付け加えられた正当化の方便であると私は考えている。しかし、ジョーはあくまでこの合法的な処罰にこだわる。市民のリンチが非合法なものであるのに対して合法的に復讐を遂げる、この点に彼は自己正当化の方便どころか喜びを見出してもいる。彼自身が敵を焼殺しようということは考えていない。
感情そのものは僕から見ると倒錯しているのだけど、ここでのジョーの演技は素晴らしい。事件の前と後で同じ人間だとは思えない。
第三に、復讐の鬼となり、自分の生存を隠して市民たちに過大な刑罰を加えようと画策するジョーへの、キャサリンの怒り。キャサリンは炎の中のジョーを見て気絶するほどのショックを受けるのだが、彼が生きていることを知っても、そのことを喜ぶ以前に、ジョーが行おうとしている復讐への怒りをあらわにする。
この三つの「激怒」が明確に描かれていた。

許されざる犯罪の容疑者へのリンチ
少女が誘拐されるという事件。これは悪いことだし、「か弱い少女」「女子供」などという表現はこれらを害するものに対する怒りを掻き立てる。そして、その怒りは簡単に伝染して歯止めが効かなくなる。推定無罪の原則など考慮に値しないものになってしまう。警察にしょっ引かれるからには容疑者には非があるのだろう。ニュースや噂から貪欲に容疑者に関して情報を探し出して考えうるあらゆる手段で彼を侮辱する。こういうときの人間は信じられないくらいにアイデアが湧き出てくる。
検察は警察が捜査した上での結論なのだからと、送検された容疑者をほとんど自動的に起訴する。警察は、もし自分たちが誤っていても検察とダブルチェックしているのだからと油断する。何か容疑者の無実につながるような証拠は誤差とされる。場合によっては自白を強要する。既成事実が積み重なっていく。

この映画では特に、容疑者へ向いて吹き出す憎悪が描かれている。噂が広まっていき、その過程でその信用性は落ちるどころか高まっていく。正義への衝動ではなく、悪を裁くという使命感と安心感が彼らを走らせる。とにかく感情が暴走していく。

処罰感情
日本ではいまだに死刑が行われている。2019年に内閣府が行った世論調査では8割が死刑に賛成している。死刑を存続させるべき理由を複数回答で聞いたところ、「死刑を廃止すれば、被害を受けた人やその家族の気持ちがおさまらない」が56.6%、「凶悪な犯罪は命をもって償うべきだ」が53.6%の票を獲得している。いわゆる「処罰感情」というものだろう。私個人は、仮に本当に悪人を処罰すべきという処罰感情を持っている人がいたとしたら、その人は悪人が国家によって処刑されることを喜ばないのではないか、自ら手を下したいために死刑に反対するのではないかと考えている。そして、それほどの本当の処罰感情を持っている人間などほとんどいないため、「本当にあなたは悪人を処罰したいのか」と聞かれた人間は自分の処罰感情が実は強固なものではないと自覚して、感情を論拠にした死刑賛成をやめていくのだろうと考えていた。
しかし、この映画で描かれていたのは、感情が集団的に作り出されて増幅していく過程だ。いわばこの「群集心理」については知っているつもりだった。だが僕は感情を吟味する時間がここまで少ないことを感情に入れていなかった。自分はナイーブすぎたのかもしれない。
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