青山祐介

ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだの青山祐介のレビュー・感想・評価

4.0
『<ドン・キホーテ>と<ハムレット>…この二つのタイプの中に人間の本性の根本的なしかも相反する二つの特徴が具現されている…(この)二元性の中に、あらゆる人間生活の根本法則を認めなければならない』ツルゲーネフ「ハムレットとドン・キホーテ」

トム・ストッパード「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」1990年 英国

1860年の講演で、ツルゲーネフは「ハムレット型」と「ドン・キホーテ型」という、正反対の人間の二つのタイプを提示しました。ツルゲーネフの人間の本性に対する見事な切口だと思います。 しかし、ドン・キホーテはあまりにも純粋で、私たちの魂はほんの少ししかその持ち合わせがありません。一方、シェイクスピアは人間の原型を描いたと言われます。ハムレットは、時代を超えて、さまざま視点から、姿かたちを変え、演劇に、映画に、オペラに、小説に、漫画にと、さまざまな分野にあらわれてきました。しかし、そこには思想的、文学的人物はいても、今ここにいる現実の私たちは不在のままです。この二つのタイプの中に ― たとえ、その混合型としても ― 私たちをあて嵌めることはできません。トム・ストッパードは、第三の私たちのタイプをはじめて舞台に登場させました。何故ならば、私たちは、ローゼンクランツであると同時に、ギルデンスターンであり、そのどちらでもない、誰でもない者、強いて言えば「das Man」なのですから。私たちは物事を二つに分けることで複雑な世界と折り合いをつけ、わかり易いものにしてきました。悲劇と喜劇、ディオニュソスとアポロ、タナトスとエロスなど、数え上げればきりがありません。
≪きみはハムレットという人間が好きか?≫と問いかけられたら、≪嫌いだね。彼を好きな奴はホレイショーぐらいのもんだよ≫と答えるでしょう。非情で孤独で、懐疑家で、不信心家で、エゴイストで虚栄心が強く、それでいて自己侮蔑型で、みせかけの憂鬱家であるハムレット型なのか、または、無償の愛にあふれた愛するドン・キホーテなのか、そうではなく、第三のタイプ、ローゼンクランツとギルデンスターンが私たちの本性なのです。
≪国王の親書も封印され、二人の学友が、毒蝮としか思えぬ奴ら二人が勅命を帯びて ― 露払い、ぼくを罠にはめようとの悪たくみ。勝手にやるがいい(第3幕第4場)≫と、登場する、ハムレットのいうその毒蝮こそが私たちの本来の、裸の姿なのです。
≪出だしのどこかで断れる瞬間があったはずだ。だが見逃した≫、映画の中のローゼンクランツの台詞です。悔やんでも遅すぎます。私たちも何かというと同じ台詞をはきます。二人は陰謀のお先棒を担いだのか? ハムレットを罠にはめようとしたのか? 良心は痛まないのか? これは悲劇なのか?喜劇なのか? 愉快この上ない生活の一幕なのか?私たちの人生の舞台は、こうして、われらが親愛なる友、ローゼンクランツとギルデンスターンのように『一巻の終わり(第5幕第2場)』となって幕を閉じます。

『芝居の狙いは昔も今も変りなく、いわば自然に向って鏡をかかげ、善には善の、悪には悪の、それ本来の姿形を、時代の現実にはその真相をくっきりと映し出して見せるところにある』(ハムレット第3幕 第2場)。
青山祐介

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