シガーandシュガー

東京物語のシガーandシュガーのネタバレレビュー・内容・結末

東京物語(1953年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

親となり、子供も巣立ちかけている私にとって、「昔はあんな子じゃなかったがなあ」という台詞が印象的だった。

親にとって子供はいつまでも自分の一部のような気がするが、子供はいつしか「自分」として生きるようになり、親が思っていたような「優秀」でも「優し」くもない人間に育っていたりする。
それに驚いたり、寂しく思ったりもするけれど、でもおおかたの親は「私らは(親として)ずっとええほうですよ」と慰めを口にしたりして受け止めていく。
それはまさに私が夫と交わしているセリフで、ここはいつの時代も変わらない部分なのかなと思った。

子供は子供で、親がいつか亡くなるとわかっていても、自分たちの生活が優先なので構ってもやれないし死に水を取ってやろうと必死になれるような余裕がもてない。親の介護をしている「娘としての」私にもわかるところだ。

葬儀直後に形見分けに身を乗り出す長女(杉村春子)は親離れというより人間性の問題だと思うけれど、それでも彼女もかつては親がいなければ心細かった子供だった。
親の死を悲しむのは一瞬、またすぐに生活を推し進めていくたくましさもまた自然。
親としても子としても、とても思うところのある描写がたくさんだ。

「忙しい自分の生活」を象徴するのが「東京」だとして、東京の町並みを眼下に見た老母の「迷子になってしまう」の一言はとても寂しかった。
彼らの息子や娘は、この東京でもう迷子になってしまった。
かつて子供であった息子と娘にはもう会えない。