これはまだ仮説の粋を出ないが、武映画では、手前から奥、奥から手前の移動に彼岸と此岸の彷徨を見ることができるかも知れない。人間が歩くとき、車が走るとき、銃弾が飛ぶとき、それら一つ一つのz軸の動きが物語を形成していく。
だからこそ無表情の顔をこちらに向ける、無時間・無感情が表層した(=「停止」した)ショットに意味が生じるのだし、『ソナチネ』におけるごっこ遊び(相撲や花火の撃ち合い)という現実世界の「休息」の中では奥手前の立体的運動は弱まるのである。
彼岸と此岸に何を対置するか、そしてその彷徨が何を語るのかについては再見後に考えたい。