明石です

過去のない男の明石ですのレビュー・感想・評価

過去のない男(2002年製作の映画)
4.5
無法者に頭を殴られ記憶喪失になり、ホームレスに身を堕とした男の復活劇。出町座で今月末までやっている「愛すべきアキ·カウリスマキ特集」も終盤に差し掛かってきて、名残惜しさを感じつつ今日も今日とて観に行ってきた。

映画や小説をはじめ「物語」というのは、そもそも意味や脈絡がないように思える実人生に意味を与えるためのものであり、その点で、たとえば「偶然」のような意味を持ち得ない出来事はなるべくなら物語から排除すべき、という考え方が主流なように思う。しかしアキ·カウリスマキの映画においては例外で、画面外から突如現れた無法者が、主人公を殴りつけて強盗し、彼(殴られるのは多分100%男)を危機に陥れることが物語の発端になっていたりする。いうなれば暴力の必然性が担保された世界。最初ははてなと思ったけど、こうも執拗に描かれているとそれはそれで必要な描写なのだなと納得させられる。

また、この人の映画の場合、暴力は物語を前に進めるための舞台装置であって、それ自体を見せるためのものではあり得ない。たとえばホラー映画やマフィア映画(もちろん後者の方がジャンルとしては近い)のように、登場人物が血飛沫をあげて倒れるシーンを見せ場にすることはまずなく、暴力の予感とともに画面が暗転するつつましやかな演出をとることがしばしば。私個人は、ホラー好きでありながらべつに残虐描写自体が好きなわけではない(残虐な行為に至る人間の心理に興味がある)ので、アキ監督のこの、あくまで暴力を見せないこだわりには共感をおぼえるのです。

そして、主人公は自分が受けた暴力を不条理な運命として悲観することもない。今ここで受けなくとも、いずれどこかで身に降りかかることとはなから受け入れている節がある。私なんかは、あの不幸がなければ今頃、、とすでに起きたことをくよくよ考えてしまう(それが偶発的な出来事であれば尚更)たちなので、彼らの、まあそれも運命、的な姿勢は本当に格好いいと思う。受け入れるからこそ、出会いがあって、その出会いに脇目もふらず注力できる。

事実、ホームレスに身を堕としていなければ、救世軍のヒロイン(『パラダイスの夕暮れ』にも出ていたカティ·オウティネン、10年経って年相応に老いてはいるもののやはり美しい)との出会いもなかったわけで。転落する一方の人生にも一抹の希望を与えようとするアキ監督の視線はいつも温かい。敗者が勝者になるのではなく、敗者があくまで敗者のままで幸せを掴む。それは、ともすれば過去の、暴力による転落がなかった頃の幸福に比べれば数段下の幸せかもしれないけど、「過去との比較」なんていう概念をそもそも持ち合わせていないらしいこのハードボイルドな主人公には、今の自分をいつもいちばん幸せにできる才能がある。そんな男だからこそ、何人かの、というかほとんどの場合ひとりの女性は、彼を放っておかないのですね。

客観的には社会の下層にいようとも、一本筋の通した生き方をしていれば相応の幸福は舞い込んでくる。アキ作品のこうした言外の含みが社会の下層(ほとんど活断層の付近)で生きる私のような人間の胸にはじんわりと広がるのです。大好き。
明石です

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