青山祐介

ストーカーの青山祐介のレビュー・感想・評価

ストーカー(1979年製作の映画)
4.8
アンドレイ・タルコフスキー「ストーカー」1979年 モスフィルム ソ連映画
『映画によって、時間はどのような形式で刻み込まれるのか?…この形式を事実の形式と規定したい。…事実の形式と現象の中に刻み込まれた時間、この中にこそ … 重大な映画および映画芸術の理念がある』タルコフスキー「映画演出講義―芸術としての映画」1989年

≪ゾーンは人生である≫- これはタルコフスキーの言葉ですが、≪ゾーン≫が象徴するもの、その多義性について- それはピクニックの跡というSFの発想から、人生の各段階の象徴である、恐怖、贖罪、イニシエーション、芸術家の使命、聖杯探求、神秘主義的、終末論的、預言者的、幻視的な物語、そして夢の貯蔵庫、魂の部屋、信仰を失った現代の物語、宗教的なメシア思想の物語であると、これまで多くの批評家によって、さまざまに論じられてきました。私が最初に心惹かれたのは、この映画は≪時≫の物語である、ということでした。それでは、≪時≫はどのように描かれているのか?タルコフスキーは≪時≫を過去や夢の残像として描いてきましたが、この映画の冒頭は、家族、部屋の細部、ささいな調度品にいたるまで緻密に表現したリアリズムの手法で描かれ、ゾーンに至る行程は戦慄のサスペンスで表現されます。その「事実の形式と現象」にみられるように、映画「ストーカー」はタルコフスキーの≪今=ここ≫に刻み込まれた≪時≫の物語であることをあらわしています。軌道車の音が時を刻み、足音が、風が時を刻みます。≪時≫を映像化することは至難です。彼は、ゾーンをめぐる≪歩行≫によって≪時の流れ≫を、またカメラの≪長回し≫、顔のクローズ・アップによって≪時≫そのものを描いていきます。しかし≪時≫の本質を描くことは容易にはできません。そこで、タルコフスキーは≪水≫によって≪時≫の秘密=神秘を描き出します。刻印された時間を≪水≫であらわす、見事な映像化です。≪水≫は流れ、とどまり、淀み、滴り落ちて、激しく、優しく、万物を浸します。ストーカーが詩と音楽の間に位置する≪時≫を語ります。それは永遠の時間をあらわす象徴なのでしょうか。そして終幕の場面は(冒頭の場面との間に時の物語を挟んだことによって)さらに象徴的なものになりました。それは時熟なのか、神の恩寵なのか、信仰にいたる証しなのか。「ストーカー」は≪時≫の物語であり、タルコフスキーの映画の中で最も重要な作品であると思います。そこで映画「ストーカー」の制作されたその前後の時の流れをみることによって、タルコフスキーの心に刻み込まれた≪時≫と映画に刻み込まれた≪時≫を対比して考えることができます。「事実の形式と現象の中に刻み込まれた時間」それは切り離すことのできないものであり、タルコフスキーの芸術を理解するための入口の鍵となるものです。
1972年「惑星ソラリス」完成。
1973年 <降霊会>で、詩人パステルナークの霊がタルコフスキーに『惑星ソラリスの後、映画を4本しか撮れない』と予言する。
1974年「鏡」完成。<シーモノフ教会の破壊>の記憶。
1976年「ストーカー」のシナリオにとりかかる。母が脳卒中で倒れる。
1978年 心臓発作を起こす。
1979年「ストーカー」完成。ソ連で撮られた最後の映画になる。母の死去。未来を占ってもらうと共に霊の予言の真否を問う。
1983年「ノスタルジア」完成。モスフィルム除名。
1984年 <亡命>ニコライ・ベルジャーエフを念頭においたものか、ミラノにおいて、ソ連に帰国しないことを宣言。「刻印された時間」出版。
1985年 11月、癌を告知される。
1986年「サクリファイス」完成。12月パリにて死去。
1987年 1月、パリの聖アレクサンドル・ネフスキー寺院において葬儀が行われた。その時、友人によって捧げられたの.バッハの「無伴奏チェロ組曲」の弦の旋律が、≪永遠の時間≫に眠るタルコフスキーの≪魂の奥底≫に響きわたります。
青山祐介

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