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大人は判ってくれない(1959年製作の映画)
4.7
 車から構えられたパリの風景、ロー・アングルから据えたエッフェル塔の力強い姿。フランス・パリ、季節はクリスマス・シーズン。ヌード・モデルのピンナップを回す教室内、アントワーヌ・ドワネル(ジャン=ピエール・レオ)はモデルの顔に落書きしていたところを担任の先生(ギ・ドゥコンブル)に叱られる。教室の前に立たされる屈辱的な光景、授業終わりに他の生徒に混じり、どさくさ紛れに逃げようとしたアントワーヌは先生に見つかり、罰として黒板を綺麗に磨くよう命令される。たった1人の親友ルネ・ビジェイ(パトリック・オフェイ)と家に帰るアントワーヌは、帰りの遅い父親のジュリアン(アルベール・レミー)と母ジルベルト(クレール・モーリエ)の代わりに夕食の用意をする(それゆえ宿題などやる暇がない)。待ち草臥れた母親の帰宅、ベッドに座り、パンストを脱ぎ捨てる母親の脚のクローズ・アップ。父親も帰り、一家団欒の食事になるかに見えたがどこかぎこちない家族の食卓。父親は小声で母親の作る料理の匂いを揶揄し、アントワーーヌは笑う。翌朝、また先生に怒られることが億劫になったアントワーヌは親友のルネを誘い、遊園地に遊びに行く。回転ドラム式の乗り物にへばりつくローターのアクションのユーモアの後、少年は突如、現実に引き戻される。ルネと2人で歩くアントワーヌは、愛人(ジャン・ドゥーシェ)と母親ジルベルトの街角でのキスを目撃してしまう。

 当初、『アントワーヌ・ドワネルの家出』として企画された短編は、欠席の理由を母親が死んだからだと答える場面を中心に映画化が想起されたが、国立映画庁から破格の金額が出て、長編映画に生まれ変わる。ヌーヴェルヴァーグの作家たちが比較的裕福な家庭に生まれ育ったのに対し、トリュフォーは貧しい家庭の生まれの私生児の1人っ子だった。夫婦の生活は当初から亀裂が入り、母親は外に新たな男を作っていたことが明らかにされるが、非行に走ったアントワーヌのために母親が向かった先での告白のように、父親は本当の父親ではなく、母親の連れ子である。パリの貧しい家に生まれたトリュフォーは両親の離婚から孤独な幼少期を過ごし、素行不良により何度も少年院に送られた。14歳の時に学業を放棄してしまった彼の唯一の生きがいは映画だった。今作には学校をサボったアントワーヌがもぎりの目を盗み、映画館でタダで映画を観る様子が映る。父親の書斎から盗んだ「旅ガイド」、ただ1人憧れたバルザック、隙を見て映画館の壁から剥がしたイングマール・ベルイマン『不良少女モニカ』のハリエット・アンデルセンの宣材写真だけが彼の魂を浄化する。アントワーヌ・ドワネル少年を演じた自身の分身でもあるジャン=ピエール・レオとの運命の出会いはこの後、「アントワーヌ・ドワネルの冒険」シリーズへと拡張して行く。

 凍てつくような冬の夜の寒さに耐えながら、タートルネックで口元を隠すアントワーヌの表情、その後護送車の一番後ろからパリの夜景を眺める少年の焦燥感、「自由」を目指した少年の逃避行とラストの存在しないはずのカメラへのカメラ目線のストップ・モーションという自己矛盾は何度観ても涙腺が緩む名場面に違いない。幼少期のトラウマや焦燥感を長編処女作に刻印したトリュフォーは今作の撮影時、何と若干26歳の若さだった。体育教師とのマラソンの場面はジャン・ヴィゴの1933年作『新学期・操行ゼロ』への愛すべきオマージュで、後半アントワーヌが街を彷徨う時、犬が逃げたと言って慌てる婦人はジャンヌ・モローであり、彼を言い包めて女に近付くのは若き日のジャン=クロード・ブリアリである。警官役で出演したジャック・ドゥミも含め、ヌーヴェルヴァーグ人脈総出で作られた今作はジャン=リュック・ゴダール『勝手にしやがれ』と並ぶヌーヴェルヴァーグの金字塔として、何度観てもハンケチが欠かせない。父親のいない家庭で育ったトリュフォーは、今作の撮影初日に亡くなった「代父」とも呼ぶべきアンドレ・バザンに今作を捧げている。
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