青山祐介

めぐり逢う朝の青山祐介のレビュー・感想・評価

めぐり逢う朝(1991年製作の映画)
4.5
アラン・コルノー「めぐり逢う朝(Tous les Mating de Monde)」1991年 フランス
原作・脚本:パスカル・キニャール
出演:ジャン=ピエール・マリエール、ジェラール・ドパルデュー、アンヌ・プロシニ

現代の<夢見るgambist>ヒレ・パールの言葉が脳裏をよぎります。ヴィオラ・ダ・ガンバに魅せられるのは「この楽器の声がわたしの霊のことばだから、… 人の声のようで、… あなたの心の耳に届くような」声だから … と。コルノーの「世界のすべての朝(原題)」は、心の耳に響くヴィオラ・ダ・ガンバの「霊のことば」を、美しい映像のなかで、私の心の目に映しだしてくれました。物語は、老いたマラン・マレが宮殿における演奏会のリハーサルで、彼の師であったサント=コロンブを回想する場面からはじまります。原作の冒頭は、サント=コロンブの妻の死と霊の出現を持ってくることによって、ヴィオラ・ダ・ガンバの奏でる「霊のことば」を暗示します。これはとても象徴的なことです。私はサント=コロンブについてはわずかな知識しか持っていませんでした。ルイ14世の時代のフランス・バロック音楽の作曲家で、宮廷のヴィオール奏者、生没年や生地など、その生涯は不明であり、バス・ヴィオールに第7弦(弦は6本が基本)を加えるなど、ヴィオール奏法の至芸を完成したといった事実だけでした。「めぐり逢う朝」によって、その伝記的真実はともかく、サント=コロンブの具体的なイメージが鮮やかに浮かび上がります。一方、マラン・マレはルイ14世の宮廷で、ヴィオール奏者の名手として、華やかに登場し、野心に燃え、才能にあふれ、音楽的想像力に富んだ作曲家であり、数多くのヴィオールの名曲やオペラをのこしています。物語はそのマラン・マレを中心に進んでいきます。性格も生き方も違う二人、サント=コロンブは「静」、マラン・マレは「動」のヴィオラ・ダ・ガンバの「霊のことば」と言っていいでしょう。ほかの楽器にはない独特の深く重たく神秘的な旋律と和声、五月の風のような声と嵐の叫び、生と死、愛と別れ、朝と夜、華やかさと静けさ、優しさと狂気、涙と哀悼、その「静と動の響き」が鼓動のように聴こえてきます。
宮廷の主役はマラン・マレでしょうが、真の主役はヴィオラ・ダ・ガンバであり、サント=コロンブの「霊=ことば」であるというのが、私の初めに抱いた印象で、これほどイメージのふくらむ音楽と映像は他にはありません。ヴィオラ・ダ・ガンバの復興は、サント=コロンブの再発見にとどまらず、「霊とことば」と「死と愛のめぐり逢い」です。そうなると、ヴィオラ・ダ・ガンバという楽器の運命をもっと深く知りたくなります。
ヴィオラ・ダ・ガンバは16世紀のフランス宮廷で愛好され、17世紀までにはイギリスに伝えられます。フランスでは、マラン・マレに代表される「パラドゥシュ(5弦のもの)」が独奏楽器として盛んに演奏され、18世紀頃にはバスとヴィオローネ(バスよりも低いコントラバス)が中心となります。ドイツでもテレマンやバッハなどがバス・ヴィオールのための作品をのこしています。しかし18世紀末になると、その歴史は完全に途絶えてしまいます。19世紀以降アーノルド・ドルメッチらの古楽復興による復活を待たねばなりませんでした。ヴィオラ・ダ・ガンバは、総称ヴィオラといわれる擦弦楽器で、腕でささえるヴィオラがヴァイオリンであるように、脚でささえるヴィオラを言います。ヴァイオリンやチェロよりも古い歴史がありますが、それらの原型ではなく、まったく異なる系統の擦弦楽器です。音量が小さく、通奏低音、室内楽、教会音楽として演奏されることが多く、アルト、テノール、バスの三種類があります。独奏楽器としてはバスが用いられ、ヴィオラ・ダ・ガンバのみのアンサンブル(コンソート)にもバスが用いられます。
ヴィオラ・ダ・ガンバという楽器をより深く知ることにより、またヴィオール曲を聴き、演奏の静と動を心の目で確かめ、「心の耳」に霊のことばが届くようになってから、あらためてこの映画を見直したいと思っています。
青山祐介

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