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シテール島への船出のNSのネタバレレビュー・内容・結末

シテール島への船出(1983年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

老人の、老いた男女の、夫婦の映画。男女が性交に及ぶ場面が二つあるが、それらは意味的な繋がりこそないにせよ、物語の中の老いた男女、夫婦に於いてその実存が晒されている精神の飢餓と、それ故にこそ生じる希求的な衝動の激しさを、イメージとして敷衍するものの様に見える。それを演じるのが夫婦の子供達であるということは、つまりそういうことなのではないか。

見ていると時に、ほとんど絵画の様なショットが現れる。それらがそれ足り得る第一因には、キャメラの捉える光陰がすこぶる的確だということはある。それが人工のものでも自然のものでも、物を照らし出す作用としての光が自覚的に見出されているから、画面が画面として、物の姿形を存在として浮き彫りにすることが出来る。それは少なくともこの映画の中では、審美的に際立つものとして映されるのではなく、あくまでも人びとがその物語の中で身を置き、触れ合う世界の実存として描かれる。

そんな画面の中のあちこちに鏡が置かれている。あちこちに置かれている鏡は、映画の画面がまさに映画の画面(=イメージ)であること(あるいは、そうでしかないこと)を、その存在自体に於いて暗に告知している。思えば序盤の撮影所のカフェの鏡越しに父親によく似た花売りが現れる場面からして、じつはこの映画自体が、劇中の映画監督のイメージして制作する映画なのではないかと、虚実の境界の認識が曖昧になる起点として機能している様に見え、それは一方で、この映画の中に窓越しのショットが多いこととも連関している。鏡も、窓も、映画の画面にとっては画面内画面であって、それは画面の中に取り込まれることでイメージを、言わば“多重化”する。

多重的なのは、しかしこの映画では画面だけではない。音響に於いても、たとえば老人は鳥の囀りの様な口笛(?)でかつての仲間とやり取りし、妻の呼び掛けにヴァイオリンの音色で応える。一見言葉少なな拙いコミュニケーションにも見えるそれらは、しかしむしろ物理的な音響的作用そのものとしてコミュニケーションの領域を多重化し、つまりは深い、広いものにしている(老人のヴァイオリンの音色を耳にする、ただその場に居合わせただけの、本来は無関係な人達のカット)。それはこの映画自体が鏡や窓といった画面内画面を多く取り込んだ構図やその錯綜するキャメラワークと人物の動線に於いて画面的にも多重的な構成によって成立していることに連関するし、それは、たとえばこの映画の中で音楽が鳴り始めるとそれが虚実(映画の内外)の“どちら側”から鳴っているのかが俄かには判別し難く、しかしそのことが却って虚実(映画の内外)の被膜の“厚み”となるという様な、そんな多重化なのだ。

多重化された映画の中の世界は言わばそのまま、映画のあちら側とこちら側を結ぶ窓であり鏡、即ち媒体となる様に思える。それは“見通す”媒体であると同時に“見返す”媒体ともなる。
映画の中の場面で人物の服の裾が微風にそよいでいる時、自分の中でもどこかで微風がそよいでいる、という様な、見る事に於いて見る事そのものにもたらされる、そんな媒体としての映画の“厚み”、あるいはむしろ“厚み”としての映画。窓であり、鏡としての。

謎が多い。少なくとも自分にとってはよく判らないことが多い。
たとえば冒頭、なぜプラネタリウムなのか。
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