プールとは人工物である。
かくあるべしと望まれ作られるものであり、なんとなくそこにあるものではない。
貯蔵される水は扱いによれば恵みとなるが、そこを歩もうとする者にとっては隔たりであろう。
好きなように生きることが当人においての恵みならば、時にそれは彼岸と此岸を分ける溝ともなる。
のだが。
母性とはかくもそういうものであるのかもしれない。
登場人物は羊水の如きプールにその身を浸すことはない。
その周りで歌い、祈り、眠り、あるいは座り、ただ語るのみである。
それは母を求めて然るべき齢の少年でさえせいぜいがくるぶしに足を岸辺に浸すのみであり、ある意味ではこのいじらしさが胸に痛い。
描かれる女性は涅槃の如くであるが、まだまだうら若き齢となるとそうもゆかない。
いい歳した男性もまた同様であるが、その様子を達観した目で見つめるのもまた涅槃の如き女性である。
それでも、誰一人としてプールに飛び込むことはしなかった。
その代わり隔たりを超え彼岸と此岸を超える生き方を選んだ。
それは新たな隔たりを生む行いであったかもしれないが、だから何と気にもとめぬ爽やかさがここにある。
思えば溝などというものの深度なぞ、自ずから生み出したプールなのかもしれない。
そも高く高くいずれ昇る頃にはそんな瑣末なことなどどうでもよいわけで、ほら、岸辺を超えることなんて別に難しいこっちゃないと言わんばかりのもたいまさこ、最高である。
その意味でラストの一幕は必見と言える。