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友だちのうちはどこ?の小のレビュー・感想・評価

友だちのうちはどこ?(1987年製作の映画)
5.0
不安で不安で、いてもたってもいられない−−。ちょうどそんな気持ちになった少し前に鑑賞した。少年の気持ち、よく分かる。

自分のせいで大変な問題が発生するかも、どうしよう? そんな不安が頭から消えない。不安の原因はノルアドレナリンという脳内物質の分泌らしい。

<ノルアドレナリンは、「闘争か、逃走か」の物質と言われます。原始人がサーベルタイガーと出合った場面を想像してください。

(略)

闘争か、逃走か。ノルアドレナリンが分泌されると脳が研ぎ澄まされ、集中力が高まり、どうすればいいのか一瞬で判断できるようになります。

そして、ノルアドレナリンとともにアドレナリンも分泌され、心拍数が上がり、全身に血液が行き渡り、いてもたってもいられない状態になります。全力で走って逃げるか、果敢に闘って打ち負かすか。ノルアドレナリンが引き起こす「不安」や「恐怖」が、ピンチを脱するエネルギーとなるのです。

つまり、ピンチのときに「さっさと行動しろ!」とあなたを猛烈にせかす物質が、ノルアドレナリンです。>

<不安になるのは、必ず「ピンチの状態」「困った状態」のときです。そこから「早く行動して脱出しなさい!」というのが、不安の生物学的な意味合いです。ですから何もしないで、放置すればするほど、不安は強まります。>

引用元 → https://diamond.jp/articles/-/267856

不安は行動を掻き立てる。極度の不安に陥った時、自分は何故かソワソワと落ち着きがなくなり、意味もなく歩き回る。問題解決に向け誰かに伝えたくなる。何が問題の原因なのか、書き出して確認したくなる。

ノルアドレナリンに突き動かされ、不安な表情を崩すことなく、とにかく動き回る少年。少年は不安を解消しようと、「話す」「動く」「書く」。誰しも同じような経験がある(多分)だろうから、少年に共感せざるを得ない。

恐るべきはその演技、というよりキアロスタミ監督の演出だろうか。演者は村の住人で、もちろん演技は未経験。それなのに何故こんなにリアルな演技ができるのだろか? 主人公もそうだけど、先生に怒られて泣き出す子も全く演技に見えなかった。キアロスタミ監督はどんな魔法を使ったのだろう。

<実際、この少年の号泣シーンにかぎらず、さまざまな場面で、監督たちは素人俳優たちに演技をさせるトリックを行なっている。それは彼らを追い込むためというよりも、彼らに演技をしていると思わせずに演技をさせるためのものだ。>

引用元(以下同じ) → https://cinemore.jp/jp/erudition/1867/article_1868_p1.html

キアロスタミ監督がどのようなトリックや工夫をこらしたかについては引用元にその一端が記されている。要するに、ノルアドレナリンが本当に分泌されるように仕向け、それを撮っているということらしい。

子役に思い通りの演技をさせようと「こんなことを想像してごらん」というような映画のシーンとは別ことを考えるよう誘導することはありそうな気がするけど、キアロスタミ監督の場合<映画の撮影のためとはいえここまでしていいのかと、眉を顰めたくなるのももっともだ>というレベルに達しているらしい。

<この撮影記録を書いたプールアハマッドは、映画の作り手は、仕事に夢中になるあまりときに周囲の人間を「映画づくりの道具」としか見なくなってしまう、と反省の弁を書いてもいる。自分たちの弱さゆえに、子どもの映画をつくっていながら、子どもを悲しませてしまうことがあると。>

しかし、そこまでしないと演技ではない「本当」を映すことはできない、という考え方にも頷けるものがある。

<キアロスタミは、何よりも現実を映すことを追求しつづけた。「画面の裏側でいきいきと咲き誇っている人生が、キャメラの前にくると萎れ、枯れ、そして消えてしまう」ことの無念さを抱え、どうすれば人生そのものを映し出せるのかを常に考え、実践した。ただキャメラを向ければ現実が映るわけではない。だからこそトリックや工夫をこらし、またときに出演者に嘘をつき、嘘のなかから真実を見いだしていく。>

濱口竜介監督は、ジャン・ルノワール、小津安二郎、ロベール・ブレッソンに習って「電話帳読み」で、プロの役者をリセットし「本当」の演技を引き出そうとする。しかし、素人役者は<本当のことしか演じられない>。それならば、その「本当」を役に当てはめれば良いのだと。

言われてみれば当たり前なコロンブスの卵だけれど、やろうと思ったら大変だし、最初に考え、実践した人は天才と呼ぶにふさわしい。ただ、アメリカや日本なら訴える人が出てきそう。

そういう点でもキアロスタミ監督の作品はとても価値があるのかもしれない。
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