カラン

白い家の少女のカランのレビュー・感想・評価

白い家の少女(1976年製作の映画)
4.5
カナダに食い込むような位置にあるアメリカのメイン州の寒村。通りの奥まったところに白い家に少女が暮らしており、銀行での出金も自分でやっている。その家の大家であるおばさんは高圧的に親を出せ、床下を開けさせろとずかずか入り込んでくる。また、その大家の息子はペドフィリアでしつこくて気持ち悪い。健気に生きる少女の母親は床下に防腐処理をされて眠っている。。。

☆ジョディ・フォスター

撮影時に13歳の誕生日を迎えることになったジョディ・フォスターは、大人になった時の彼女そのままである。今見慣れているジョディをそのまま小さくしたような感じが微笑ましい。本作は児童性愛の男が少女の胸に手を入れるシーンがあったり、13歳が少し年上の青年とベッドに入って経験があるかどうかの話になったりするので、際どいシーンがいくつかある。

☆お母さん

セリフはジョディがやっているが、基本的には替え玉の撮影のはずである。青年とのベッドインの前に服を脱ぐと背面でヌードになる。お尻にはっきりとした日焼けの後があって変だなと思ったら、お姉さんが替え玉をすることになったようだ。ジョディはお母さんがマネージャーをしていたが、ヌードの撮影は嫌だと13歳は撮影現場の外に散歩に行ってしまったようだ。それでおそらくお母さんがお姉ちゃんで代打させたのだろう。1度目のオスカー受賞である89年の『告発の行方』、さらに2度目のオスカーをもたらした91年の『羊たちの沈黙』の頃まではお母さんが広報を担当していたようである。

☆大人の犠牲者には絶対ならない

小さいけれど嫌なことは嫌だとちゃんと意思表示できたジョディ・フォスターらしいエピソードである。そしてこの小さいがとても強いということこそが、本作の主人公であるリンという少女を演じるのに必要な特性なのであるから、ジョディは完璧なキャスティングなのであった。

☆ヒロインの造形

本作は少女の自立を描く。この自立は生易しいものではなく、非常に過酷なものなので、映画のストーリーとしてエッジが効いており高く評価できる。この自立を描きだすためにペドフィリアや替え玉ではあるが少女のバックヌードが描かれる。主人公のリンという少女の母は偏執的な親であったという設定で床下に防腐処理をされた死体として眠っていることになっている。

そもそも詩人の父はこの母親からリンを引き離すためにアメリカに渡ったのであった。死期が近いことを悟っていた父は子供が大人の犠牲者にならないようにと、もし母親がリンを訪ねてきたら紅茶に青酸カリを混ぜて毒殺するように教えた。その他、リンが白い家で1人で暮らしていけるように準備をして死んでいった。

そうしたことは全てリンがセリフで回想する設定であるので、父も母も、たとえ死体であろうとも、本作には姿を現さない。代わりに、気持ち悪い大家のおばさんの死体が床に出てくるのである。このサスペンススリラーの中、独りぼっちのリンを支えてくれる年上の青年はマジシャンである。この青年がまたつきまとう児童性愛の男と対比となる。

長々と書いておいて恐縮だがうまく説明できていない気がする。本作は手前味噌な設定を散らして映画の映像の不手際を糊塗しようとする『TAR/ター』(2022)のような映画とは脚本上の設定の使い方がまったく違うのだと言いたいのである。

リンの造形も非常にユニークである。ジョディはくすんで灰色がかったブロンドのロングのウィッグをつけてリンを演じる。民族衣装のような白いコットンにオレンジのラインが入ったローブのような衣装である。これらは明らかにヒッピーのカウンターカルチャーの中にリンという少女を立たせる演出である。同時に、父は詩人であり、クラシックのレコードをリンに残す。テーマ曲はショパンのピアノ協奏曲第1番である。つまり、ハイカルチャーの系統を導入して、リンの知的な側面を映画の人物像の中に定着させる試みなのであろう。

こうした複合的な少女を12~13歳のジョディ・フォスターが演じる。天涯孤独となったリンがマジシャンの青年との絆を繋ぎとめようと、少女らしいことを試みる。青年が家にやって来た時の、ずっとずっと待ってた、の表情には感嘆する。大人になった時にも見せる、トントンと小さなステップを踏む動きも既に確認できた。

レンタルDVD。55円宅配GEO、20分の7。
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