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イースタン・プロミスのnetfilmsのレビュー・感想・評価

イースタン・プロミス(2007年製作の映画)
4.3
 イギリス・ロンドン、クリスマス・シーズンのアジムの散髪店、甥っ子エクレムは恐る恐る店の看板を「CLOSED」にし、静かにブラインドを閉める。カットも仕上げの段階に入り、ロシア人の客とアジムは談笑しているが次の瞬間、戦慄が走る。「ロシア野郎のクビを切れ!」。そう言われたエクレムはナイフで喉元を掻っ切る。一方その頃、1人の少女が薬局に駆け込んでいた。「助けて」とか細い声で懇願する少女のスカートからは破水し、血液が流れ出ていた。救急搬送されたトラファルガー病院、助産婦のアンナ(ナオミ・ワッツ)の危険な母体処置と引き換えに、赤ん坊はこの世に生を受ける。絶命した少女のバッグから見つかったロシア語で書かれたダイアリー、イギリスとロシアの混血であるアンナにはまったくロシア語が読めない。母親ヘレン(シニード・キューザック)と同居する家には、元KGBだと言って憚らない伯父ステパン(イェジー・スコリモフスキー)が出入りしていた。アンナには昨年、恋人である黒人との子供を流産した苦い過去があった。タチアナという名の少女の記憶を探るべく、ダイアリーに挟み込まれた「トランス・シベリアン」というレストランに手がかりを探しに行くアンナは、オーナーのセミオン(アーミン・ミューラー・スタール)と出会う。ダイアリーのことを知ったセミオンは優しい口調で私が翻訳してあげるからと微笑む。彼には放蕩息子のキリル(ヴァンサン・カッセル)とその運転手であるニコライ(ヴィゴ・モーテンセン)がいた。

 前作『ヒストリー・オブ・バイオレンス』同様に、クローネンバーグ作品とはとても思えない地に足の着いた世界観は、ファミリーの仁義に抗えないロシアン・マフィアの流儀に肉薄する。タチアナの出自に関わる物語が知りたいアンナはほんの少しの好奇心がきっかけでマフィアの男と男の世界に足を踏み入れてしまう。その意味では今作も過去のクローネンバーグ作品同様に、普通の人間がおかしな世界へ足を踏み入れてしまう「こちら側とあちら側の境界線」に纏わる物語でもある。アンナの甘い衝動はマフィアの恐ろしい流儀に絡め取られるのだが、そんな彼女の未来に興味を持つ男の姿。舌でタバコを消し(凄い光景!!)、葬儀屋として人間の最期にほんの少しの色を付ける男の姿は、人間の生を見守る助産師としてのアンナとは対照的に処刑人としての冷酷さを有する。『ヒストリー・オブ・バイオレンス』とは違い、拳銃ではなく刃物による鈍い痛みは身体を切り裂き、人間の内側にある痛みをもえぐり出す。アンナのエンジンが壊れた愛用のバイク、ニコライの首に掲げられた十字架のタペストリーと胸を覆う黒い十字架の刺青、保護者同伴のハンバーガー屋の店内で一瞬触れる指先、身篭った子供を失うような大失恋の後、男が誰1人信じられなくなった助産婦に対するクリスマス・プレゼントの言葉。売春婦とホモが横行するロンドンの湿気た夜、バカ息子の妄執と同性愛者の疑惑、チェチェン人に命を狙われた男に残された猶予はたったの2日に過ぎない。

 主人公の幼少時代のサンプトベテルブルクでの血塗られた暴力、12回も独房に放り込まれた男の粗暴さ、クライマックスのフィンズバリー区公衆浴場での皮膚を突き破るようなナイフの暴力性は、『アウトレイジ』を手掛けた北野武が真っ先に影響を受けた作品として挙げている。盟友ジェレミー・アイアンズの嫁をアンナの母親役に起用したクローネンバーグの匙加減、局部を露出したヴィゴ・モーテンセンの危険なアクション、前作『ヒストリー・オブ・バイオレンス』とは同じ殺し屋ながら、心底対照的な血の通わない役柄を演じたヴィゴの表情はこれまでのクローネンバーグ作品同様に一切の笑みを浮かべることはない。心底憂鬱でこの世の終わりのような苦み走った表情を浮かべながら、組織の流儀を冷静に残酷に見つめる。これまで散々、男社会の有り様を描いて来たクローネンバーグ映画には例外的な女性主人公の起用は、クローネンバーグの40年にも及ぶフィルモグラフィの特徴を見事にアップデートしてみせる。イェジー・スコリモフスキー、アーミン・ミューラー・スタール、ヴィゴ・モーテンセンの心底絶望的な表情は幾つもの男たちの印象的な皺が滲むが、それ以上に前景化するのは、祖国を追われた少女たちの悲しみに他ならない。身篭った子供の誕生に立ち会えなかったタチアナの姿、売春宿のベッドの上、愛情もない男の性の欲望のはけ口になったウクライナのキエフ郊外のキリレンコは東欧の民謡を唄う。助産婦としての倫理観以上に生と死の本質を見つめ、危険な賭けに出るアンナなど、ここには幾つもの印象的な女性たちの表情が克明に描かれている。
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