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当りや大将のCHEBUNBUNのレビュー・感想・評価

当りや大将(1962年製作の映画)
4.5
【大阪の広場で賭博黙示録】
Amazon Prime Videoでは昔の日本映画が多数配信されている。聞いたことないような作品も多く、好奇心掻き立てられる。そんな中、出会ったのが『当たりや大将』だった。新藤兼人が脚本を手がけている当たり屋の物語。それに惹かれて観たら大当たりであった。

線路沿いで賭博をして暇を潰す輩。遠くから、「仕事よ!」と声がかかると、群れをなして作戦が実行される。大将は、当たり屋の達人だ。車に華麗にぶつかる。大阪ドヤ街の群衆がゾロゾロと車を取り囲み、金を請求する。しかし、車に乗っている者もそんなことが日常茶飯事なことは知っている。口論になっているうちに警察が現れ、蜘蛛の子を散らすように群れが掃けていく。映画は、写真と報道映画を組み合わせて、大阪ドヤ街の生活について解説を始める。なぜ警察が検挙できないのか、ドヤ街の犯罪の仕組みを軽妙に語る。動なる画が突然、静止し、観る者の関心を集める手法も取り入れ、はたまたウィス・アンダーソン映画のように大勢が一斉にカメラを向く不自然な場面が採用され、そのスパイスが一気に映画の世界に没入する。

そして、本作は人間が映画の中の人間というよりか、実際に生きているような風格を醸し出す。もちろん、大将がゴロンと小屋から転がるようにして出てくる様子はフィクションっぽいのだが、その背後で大勢の人間がピラミッドを作り始めるも映画の内容に一切関係がない様子は、大阪ドヤ街の本能的に現在を生きる者、快楽を求めて今を生きる者の肖像としてリアルさを感じる。

さて、本作では幾つか見どころがある。一つ目は、大阪広場の賭博を壊滅させる場面。大将が、女に博打で敗北し、借金を背負う。借りたお金を大阪の博打に賭ける場面がある。最初は劣勢。どんどんと札束が少なくなっていく。あと1枚しかない、ここぞ大勝負といった状況で警察が現れ、賭けが終わってしまう不安を演出する。しかし、なんとか賭博は再開され、運気を取り戻す。一つのブースを潰すと、周辺のブースを壊滅に追い込んでいくのだが、賭博のプロセスは省略され、群れの動きだけで優勢な状況を語る。数秒でブースは潰せるわけがないのだが、群れの運動の熱気に本物らしさが宿るので、観る者はそのハッタリの共犯関係を結ぶこととなる。そして、賭博場を仕切るボスが現れ、戦いを挑む。ボスは、かなり大きな賭けをするが、確率論で考えたらボスの方が優勢だ。永遠に勝ち続けることは不可能に近いので、数回大きな勝負を仕掛ければ金を回収できる。例え、負けても、さらに大きな賭けを講じれば大将を倒せるのだ。大将は本能で生きているので煽りに乗ってしまい敗北する。この心理戦がまた面白かったりする。

映画の後半では黒澤明『生きる』のアンチテーゼのような物語へと発展し、本能的に生きてきた大将が賭博場となっている広場にブランコを建てようとするのだ。『生きる』では志村喬の目力によってヤクザやデッドロックとなった社会システムを破壊し、ブランコを建てていくが、実際には強烈な逆流と対峙する必要がある。本作はその観点から描いていて味わい深かった。これは思わぬ掘り出し物であった。
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