優しいアロエ

ニーチェの馬の優しいアロエのレビュー・感想・評価

ニーチェの馬(2011年製作の映画)
4.3
〈終焉間際に浮かび上がる人間の絶望的本質〉

 ハンガリーの不毛な大地に砂嵐が激しく吹きつける。馬は云うことを聞かなくなり、井戸水は突然涸れてしまう。俗世から乖離した小屋でジャガイモのように無味乾燥とした生活を反復してきた父娘に、不合理ともとれる苦難が重なっていく。

そしてついに、世界は光を失った——

 本作は『メランコリア』に似ており、世界が終焉を迎えるさまを通して人間活動の無益さや死生観を提起する壮大な寓話に思われる。ただし本作は、最後、本当に終焉を迎えたかがわからないのではないか。むしろ“終焉を予感してもなお”円環運動のような日常にしがみつこうとする父娘の無力な姿こそ重要に思えてならない。

 ここからは高校倫理をさらった程度の人間の解釈として緩く読んでほしい。父娘の元に、あるスキンヘッドの闖入者が現れる。彼は「神の死」や「永劫回帰」といったニーチェ思想を連想させることを宣うが、しかし一方で世界の堕落が確実に訪れたのだと云いきる。父はこれを「いい加減にしろ。くだらん」と一蹴する。その後スキンヘッドの宣告した通り、世界の崩落は形を持って父娘に襲いかかる。しかし、なぜかふたりは新天地への移動を断念し、世界が闇に包まれてもなお小屋のなかで生のジャガイモをかじりつづける。

 最期まで父娘が継続する無力な日常の反復はニーチェの云うところの「運命愛」と重ねられそうである。世界が終焉を迎えた時点でニーチェの「永劫回帰」は破られた気がするが、それでもなお二人はこの反復のなかでしか生きられない。この終焉間際にこそ人間の絶望的な本質が隠れている。

 「もし明日地球がなくなるとしたら何して過ごす?」とかいう大喜利精神を弄ぶお決まりの質問があるが、その答えは案外ひとつに決まっていたのかもしれない。「いつもと同じ服に着替え、ジャガイモを食う」んである。
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