まっつん

クリーン、シェーブンのまっつんのレビュー・感想・評価

クリーン、シェーブン(1993年製作の映画)
4.0
結構楽しみにしていた作品。Twitterで本作の公式アカウントが訳のわからぬ電波系ツイートばかりを繰り返しておりまして。「なんだこれは!宣伝する気あんのか!」なんて思っていたのですが、鑑賞してみて納得。これは相当宣伝しづらい作品ですわな。

と言うのも、本作が描くのは統合失調症。統合失調症に限らず、精神疾患に関しては世間的に理解が進んでいないこともありまして、表現において無神経かつ無理解な取り扱い方をすることで誤解や偏見を助長しかねないーということがあるので当然ながら慎重に取り扱わなければいけないわけです。最近も、藤本タツキ氏の漫画が「精神疾患への差別や偏見を助長しかねない」ということで問題になったりもしました。

本作は正しく統合失調症患者の感覚を追体験させる作品になっています。で、観る前は25年も前の映画なので、何となく作り手側も精神疾患に対する理解が現在より遥かに乏しい状態で作られた破茶滅茶な作品だと思っていたのです。しかし、本作はそういうニュアンスとは真逆の作品です。というのも、監督のロッジ・ケリガンは一年半に渡って統合失調症を調査・研究し、DSM(精神疾患の診断と統計マニュアル)という最も有名で権威的なマニュアルに沿って本作を作り上げたからです。それ故に、統合失調症患者が感じている感覚というものに対して、ある種抑制の効いた誠実な描き方をしていると思います。

統合失調症と一口に言えども、その症状は陽性症状、陰性症状、認知機能障害という3項目に大別されます。ですが、ほとんどの統合失調症患者は「脳内を駆け巡る声やノイズ」(分類で言うところの陽性症状)に苦しめられることが多いそうです。この「脳内で聞こえる声やノイズ」、そして誇大妄想に怯え、不安に苛まれる男性の姿を本作はあくまで淡々と追体験させていきます。絶えず耳の奥で鳴り響く不快なノイズが、体の中に発信機と送信機が埋め込まれている....という耐え難い妄執が主人公のピーターを苦しめると同時に、我々観客をもジリジリと追い込んでいく。自分の感情が、思考がまとまらない....コントロールできない不安。そういった言葉にならない感覚がピーターの怯え切った表情からヒシヒシと伝わってくるのです。

彼はなぜ統合失調症になってしまったのか?その理由は明示されません。しかし、彼の母親に原因の一端があることは明らかでしょう。彼の母親は精神病院を退院して、実家に戻ってきた息子を邪険に扱うのです。彼の話には全く耳を貸さず、かと思えば一方的に捲し立てる。「お腹が減ったでしょう?何か食べる?」とピーターに尋ねてサンドイッチの材料を持ってくる母。しかし、その目は言葉とは裏腹に信じ難いほどに冷たい。統合失調症を引き起こす原因として、ダブルバインド理論というものがあります。言葉と態度が矛盾したメッセージを受け続けることで混乱し、精神に支障をきたす可能性が高まるという理論です。この母親の行動は強烈にダブルバインド的と言えるでしょう。サンドイッチのシーンは正しく矛盾したメッセージを受け取って混乱し切ったピーターの精神状態を描いています。さらにダブルバインド以上に悪質だと思われるのは、この母親のコミュニケーションの取り方です。基本的には会話が成り立たないのです。というか、ピーターとの会話を成り立たせる気がない。ピーターが何か問いかけても「座りなさい」としか言わない。もっと酷い時はこちらをジッと見つめて無視をする。こんな人物と一緒にいたら誰だって閉口するしかないし、精神的に混乱するに決まっています。

そして、本作は「統合失調症患者は統合失調症であるが故に犯罪を犯すのだろうか?」というセンシティブな命題についても切り込んでいます。ピーターが退院した折に、町では幼女殺害事件が起きます。この事件を担当する刑事(この刑事も大概様子がおかしい人物です)はピーターを犯人と決めつけて捜査を行います。街の住人も彼の様子を不気味がり、図書館の司書は彼について事実とは全く違う証言をする。本作は所々でピーターの身の回りの人間の視点を挟み込んでいきます。それは時には彼の奇行に対する自然な反応であり、時には偏見や悪意に満ちた目である。こういった視線によって、ピーターは「誰かに見られている、監視されている」という誤った認識を深めていくのです。

この幼女殺害事件の犯人は結局はっきりと明示されません。一応の種明かしはありますが、ピーターがやったようにも見えるし、別の人物の犯行のようにも見えるというバランスでの着地。つまり捉えようによっては「犯人は誰でもいい」のです。それより大切なことはこの事件の顛末を通して、彼の周囲の人間が彼を見たように観客自身がどのように彼を見ていたか?です。自分自身が彼に向けた視線は果たして何だったのか?ということを鋭く問いかける作りになっている。という部分が本作の非常に優れている点だと感じました。

全体的には感覚的なイメージの羅列に近い作品ではありますが、お話の筋が無いということではございません。もちろん、幼女殺人事件の件もありますし、もうひとつの軸として「ピーターの里子に出された娘探し」というものがあります。ここが実に切ない。束の間の娘との交流に漂う、僅かながらではあるが確かな幸福。そしてその果てにピーターの頭が「クリーンになる」瞬間とはいつか?あまりの切なさに僕はもう泣いてしまいましてね。まさか本作のような映画で泣かされるとは思いもしませんでした。

いずれにせよ、鑑賞には覚悟が必要なタイプの作品だと思います。とにかく神経が擦り減るような不快感、痛々しさに満ちているので。しかし、人間の心とは思いのほか簡単に壊れてしまうものです。これは僕個人の実感としても、そう思います。だからこそ本作を観る価値はあるのではないかと感じました。